V 庵の案内へ このページの目次 @ A B C D E F G H I J
エッセイV
私の神仏・我が家の神仏事
@ 二社三寺の初詣+豊川稲荷+笠森観音+築地本願寺
A お札について
B 二の午
C お彼岸(春・秋)・お盆
D 秋祭り
E 年の暮れ
F 法事
G   


@ 二社三寺の初詣 
 我が家のある街は、都心から地下鉄で三十分ほど。江戸時代の街に、この半世紀の新しい町作りで新たに造成された街が融合して出来ている。そんな住環境にある。
 この大晦日、昼前に降り出した雪はやがて雨になった。隣のお宮の雨の中での新年を迎える準備はなかなかに大変そうだった。が、今年はテントが一張り少なくなった。夜の九時過ぎにいつものように犬の散歩にでたのだが、小雨が降っているからか、夜回りのジャランジャランの音以外静まりかえっていた。紅白が終わってNHKが「行く年来る年」を始めると、隣のお宮に初詣する人々が並びはじめ、やがて零時の時報とともに参拝が始まり、例年は、我が家の前にも更に先までも行列が出来る。この十数年で集まる人が何倍も多くなった。しかし今年は天候不順であったからか、雨はやんだものの例年の半分ほどの人出であった。いつもはその行列が少し納まったころ(0時半か一時過ぎてから)初詣に出るのだが、今年は早めに出掛けた。
 先ずは隣のお宮でお払いをしてもらって、御神酒か甘酒かカルピスを頂き、次にこの地域で一番大きなお寺に行く。ここはまだ除夜の鐘を突く人の行列が続いている。こちらも人出は半減していたが今年から整理券になったもののやはり三十分は待つという。初詣は又別の列で近年はこちらも多くの人が並ぶ。上にのぼって年始の挨拶。次にこの隣のお寺に詣でる。ここは屋台の店が出たりお札・お守りの類を売っていたのが今年は閉まったまま。我が家で生活していた犬猫はここに眠っている。で彼らの廟の前に行き、お詣り。次にこの五ヶ町の御神輿を納める神社に詣でる。ここでお蜜柑と御神酒・お汁粉を頂く。いつの頃からかここで破魔矢はまやを買う慣わしになった。最後になってしまうのだが、先祖・父の眠るお寺(ここも我が家に接している)に行きご挨拶。いつもより列ぶ時間も少なかったこともあって、まだお講が続いていた。お蜜柑と干支の飾り物を頂いて帰る。この間行程は距離にして一キロもない。多分三十年以上はこんな風であろうか。以前は子供と一緒にまわったりしたが、今は夫婦だけで回る。
 子供達が小さい時は、と言うよりこちらが体力的に元気だった時は、この後鎌倉建長寺の山上で初日の出を拝み、八幡宮をまわって帰って来て、元日の朝を家で過ごす事もあったのだが、近頃は寝ないと後がきつい。
 いったん寝た後、元旦の朝の行事を簡単に行う。
 神棚・仏壇・荒神宮・お稲荷さんにそれぞれ御神酒・お灯明をあげて、新年の挨拶。家族の揃うのを待って改めての新年の挨拶。
 ところで今年は息子・娘が暮れも正月も時間不規則に仕事に出ていて、いつが揃う時間かはっきりしない。かろうじて年の内にそばを一緒に食べられ、元日の朝も何とか揃った。
 で、ここで今年の抱負などを語ると良いのだが、どうも定年後の抱負というのはなかなか定まらなく捕らえ所がない。お屠蘇に酔って朝からうつらうつら。えっ、これからはずっとうつらうつら・・・となるまいというのが抱負と言えば抱負か。 

  豊川稲荷
 三日になって、所謂初詣に妻と出掛ける。この数年は、赤坂の豊川稲荷に行く。後厄ということでお坊さんにお経を読んでお祓いをしてもらい、お札を頂いた。今年は着物姿をめっきり見かけなくなってしまった。四十年前はデモで良く歩き、三十年ほど前の結婚式はプリンスホテルの近くだったと言うことを思い出しながら、そのあたりを散歩し、ホテルで食事して帰ってきた。
             

  笠森観音
 杉戸の杉篁庵に行く途中、茂原と市原の境に「笠森観音」がある。千葉の古い寺社の中でも大杉のある落ち着いた森の中にあり、建築様式が「四方懸造」という変わった構造(日本唯一という)からなる寺である。家族全員揃っての今年の初詣(六日)はここになった。
 
 上・諸国名所百景・上総笠盛寺 二世広重


  杉戸のお宮+築地本願寺
 正月の内では、杉戸の部落のお宮と、十日に築地に昼食に出掛けた折、我が家の宗派でもある築地本願寺にお詣りしたので、結局、三社六寺に参詣したことになった。築地本願寺にもこれまで年に何回かはお詣りしていたようなので、こうしてまとめてみると自分ながら意外に「信仰」深いのかもしれないと思ったりする。



A「お札について」
 豊川稲荷東京別院は、お稲荷さんと言ってもおおかたの伏見稲荷・笠間稲荷・瓢箪山稲荷・祐徳稲荷のような神社でなく、お寺である。愛知県の三州本山豊川稲荷(圓福山妙厳寺)の直轄別院で赤坂一ツ木の大岡邸(それ故、大岡越前守の廟がある)にあったもの。明治の神仏分離政策は,祭政一致,神道国教化を意図するもので、とくに神仏判然令は、急速に廃仏毀釈へ向かわせた。その折、豊川稲荷は宇迦之御魂神を祀っているのではなく本尊ダキニ天(真言密教は、荼枳尼天(ダキニテン)を「白晨狐王菩薩」と同じもので「稲荷神」であるとし、白い狐にまたがる剣と宝珠を持つ天女として表現している。キツネと一体となった荼枳尼天は、主として東寺を中心とする真言宗によって世間に広められた)を主張して譲らなかったのだそうだ。が、境内の配置、権現造り本殿(本堂と言うべきか?)はどう観察しても神社である。天部信仰の寺院はこの形式(神社形式の寺院)が多い。天部の仏の多くはインドの土着の神(ヒンドゥー教の神等)が仏門に帰依したとされるものが多く元々神仏習合なのだ。坊さんがお経を読む、山門で鳥居が無い、神社らしい空域がないと言うところがお寺であるところか。神仏分離以降も仏教、神道両者から信仰される稲荷信仰はある種完成された感のある信仰形態でもあろう。さて、ここで頂いたお札を納めるのは、神棚、お稲荷さん(我が家は神宮系)、仏壇(浄土真宗)のどこに?。しばらくピアノの上にあったが、迷いながらもやはり、寒川神社のお札(これは母が毎年頂く)と重ねて、神棚の向かって左に納めた。



B 二の午にのうま
 庭のお稲荷さんは、初午ではなく二の午に祝詞のりとをあげる習慣になっている。いつからそうなのかは解らない。右隣のお宮と一緒に隣町の大きな神宮から神主さんが来て、我が家の左隣と後何軒かのお稲荷さんのある家々を回って祝詞をあげていく。一度都合の付かない時(二の午の日、我が家に誰もいなかった?)祝詞を神主に教えてもらって、私が祝詞をあげたこともあった。 


 2月の中旬 手前の梅が咲き始めようとしている
         

C お彼岸(春・秋)・盆暮れ
 お彼岸とは、春分の日・秋分の日を中日ちゅうにちとする各七日間。また、この時期に営む仏事。「彼岸会」。平安初期に始まるという。現在も墓参などが広く行われている。日本独自の習俗が仏教と結びついたものと考えられる。[季]春。「大辞林 第二版」より

D 秋祭り

E 年の暮れ

F 法事

G 靖国の異状

H 

I

J