T 祝いうた
U 最後の授業
V 『最後の授業』
    アルフォンヌ・ドーデが小学校の教科書から消えたことの言語学的意味を探る

W 「最初の授業」を振り返る(ゆずり葉)
(教育実習の時の教材)

T 祝いうた
 ホームページの立ち上げの記念として、ある文集の発刊に寄せて書いたものを再掲する 
 沖縄の祝い唄に、次のような歌があります。
「今日(きゆ)ぬ誇(ふく)らしゃや 何(なお) にじゃなたてぃる 蕾(つぃぼ)ぃをる花(はな) ぬ 露(つぃゆ)ちゃたぐとぅ」
 この歌は、「かぎゃで風」という音曲にのせて、 祝いごと一般に共有して歌われる慶賀の歌で、沖縄 では結婚式やトゥシビー(生年祝)、落成祝い、あ るいは長寿の祝いなど、祝賀行事の始めに演奏され、 踊られます。代表的な三味線(サンシン)曲の一つ で、明るくて格調があり、喜びの場にふさわしい曲 とされています。沖縄芝居の人気演目の一つに、口 のきけなかった王が初めて口をきいた喜びを、鬼大 城(おおぐすく)と呼ばれる忠臣が、この歌にして 詠んだというものもあります。カジャディフウと発 音され、輝かしいという意味の耀(かが)の訛った ものと考えられ、輝かしい踊りの手ぶり、あるいは 音楽といったほどの意味といわれています。  歌詞の型式は「琉歌」。南西諸島において生まれ た短い歌謡で、琉球方言で詠まれた短歌の一種です。 和歌が五七五七七の三十一文字で構成されるのに対 して、琉歌は、上句八八音と下句八六音の合わせて 三十音の定型から成っています。仮名文字にすると 字数が三十字以上になるのは、詠むときに、拗音を 尊重し、首里の士族たちが行っていたといわれる発 音を表記したためです。この歌は「読み人知らず」 の古歌ですが、「琉歌」は三線の詞として広く鑑賞 され、これを伴奏にして、典雅な琉球舞踊が踊られ、 今日でも作られて、沖縄の人々の生活の中に生きて います。  「今日の嬉しさ、誇らしさは何にたとえようか。 今にも咲こうとする花の蕾が、朝露を受けてぱっと 咲き開くよう。」というのが、この歌の意味です。       喜びを 何に譬えむ 薄蕾  露に光りて ひとつ咲きたり
                                 


U 最後の授業
 先日、教員生活三八年間の最後の授業が終了した。その授業で生徒に少しばかり語ったこと。
「深海の魚族のように自らが燃えなければどこにも光はない。」
 これは癩を病んだ歌人のことばを若い頃の大島渚が引用しているのを読んで心に残っているもの。
「明けない夜はない。」
 これは安部公房のことば。
 この二つの言葉から、困難な状況に出会った時、それを克服するのは自身の力によるしかないのだが、思うようにならない時もある、その時、他力本願でも状況が開かれる期待を捨ててはならないということを語った。
 また、生き生きとして生きるための「生きる力」を湧き上がらせるものとして、「夢を持ち続ける」こと、「愛する心」を失わないこと、この二つをあげた。そして、二十一世紀の中核を支える若者が広い視野を獲得し、生きる意義を見いだし、未来の社会を自らが作り上げる気概と夢を持って、充実した人生を実現するよう願った。
 振り返ってみれば、国語教師としては「国語の力」とは、「状況認識の力」だ、「状況を正しく捉え、困難な状況を切り開いていく力」を培うのが勉強だ、と語り続けていたように思う。
 私自身は、退職した後四月からの生活をどう組み立てていくかが、まだ定まっていない。だが、「夢を持ち続ける」ことだけは、老いて猶失わずにいたいと思い、「隠居生活」という新たな夢をどう実現するか、自分自身に何が出来るかを期待しているところではある。
                                  
 
 

V 『最後の授業』アルフォンヌ・ドーデが小学校の教科書から消えたことの言語学的意味を探る

@小学校の'教科書から消えたこと。
A現在、「最後の授業」は、大学の「社会言語学・言語社会学」  の教材として使われていること。

 1870年にプロシアとフランスの戦争、普仏戦争が起こり、この戦争で勝利したプロシアは、敗戦国フランスに賠償金50億フランと、アルザス、ロレーヌ地方の割譲を要求。こうしてドイツは重化学工業を発展させるのですが、この状況を題材に書かれた「最後の授業」という文学作品があります。作者:ドーデ。月曜物語という短編の中の一つです。
 小学生時代に国語の教科書で読んだ方が多いと思います。

「フランツ少年は晴れた朝、森への誘惑に勝って遅刻しながらも学校に行きます。いつもと違う、ひっそりとした教室には、アメル先生が正装し、村の人達まで集まっていたのです。
「みなさん、私が授業をするのはこれが最後になります。ドイツ語しか教えてはいけないという命令がベルリンから来たのです。明日からドイツ人の先生がドイツ語で授業を始めます。今日がフランス語の最後の授業です」先生は40年ものあいだここで、たくさんの村人に授業をしました。前の村長さん、オーゼル爺さん、郵便屋さん・・・
「・・・ある民族がどれいになっても、その国語を持っているうちは、その牢獄の鍵を持っているようなものだから・・・」
 教会の鐘が12時を打ったとき、アメル先生はチョークで黒板に『フランスばんざい』と書いて、去っていきます。」

この作品は、国語(=母国語)愛を語る物語として、昭和2年(1927)に教材として採択されて以来、途切れた時期はあるものの、昭和61年(1986)まで、優に50年間も、国語の時間に、教えられて来ました。

 「国語=母国語愛を語る物語」と言っても実はこの地方の子どもたちにとっては、自分達の言語ではないものを大国の都合で押しつけられていたのです。独立した言語、文化を持っていて、フランス語も、ドイツ語も占領した外国語なのです。フランス人は、フランス語に対する感傷があって、この「最後の授業」は成立しているといえます。全体主義国家ではない当時のフランスにおいてさえ、言語に対する思慕の念は愛国心をあおるものだったのです。ドーデのプロパガンダという人もいます。

 「私たちアルザス人は五世紀のゲルマン民族の大移動以来ドイツ語方言であるフランク語とアレマン語を喋っていますが、フランス人です。私たちは一六四八年以来フランス人となり、その後二度ドイツに併合されはしましたが(普仏戦争後に四十八年、ナチス・ ドイツに五年)、フランス革命やナポレオン戦争を戦い、両世界大戦でドイツと戦いました。私たちはビールを飲みザウアークラウトを食べ、自分たち独自の文化、歴史、言語を大変誇りに思っていますがフランス人なのです。それではいけませんか? こう聞かれたら、「勿論結構ですとも!」と誰だって答えるだろう。だが皆知らなかった。アルザス人がこういう人々だとは、あんなにアルザスを欲しがった独仏の人々ですらろくに知らなかったのだ。ドイツ語(の方言)を喋るのだからドイツに戻りたがっているに違いない、とドイツ人は無邪気に思い込んでいたし、フランス人に至っては、アルザス人の母語がドイツ方言であるということすら知らない者が多かった」ウージェーヌ・フィリップス『アルザスの言語戦争』白水社

 この『アルザスの言語戦争』は、ヨーロッパの文明の十字路アルザスにおけるドイツ語・フランス語という二大文化語の戦いを描き、支配者と国家語が替わるたびに民族のアイデンティティー、自らの言語と文化を守るため苦闘を重ねたアルザス人の歴史を語っています。ドイツ系アレマン人の地方アルザス→1648 フランス王国に併合→1870普仏戦争後プロシャ→1918第一次大戦後フランス→第二次大戦中ドイツ→後フランス。この間の言語の変遷と言えば、基本的にはドイツ方言アルザス語が語られますが、行政語のレベルではもちろん戦勝国のものが強制されます。
 アルザスの言語戦争とは、二つの「国家の言葉」(それは学校で習う言葉、役所や商売で必要な言葉、そして敵国の言葉でもある)と母なる方言=母語を巡る、愛と受容、支配と憎しみと反発の、波瀾万丈の物語です。《ことばと国家》、少数民族の普遍的問題を考えるうえで示唆に富みます。

 「最後の授業」について田中克彦は「ことばと国家」(岩波新書1981)の中で次のように記しています。

 「ドーデはアルザスを舞台にした小話を、フランスがプロイセンに敗北した1871年から73年まで、毎月曜日、パリの新聞に連載した。・・(中略)・・この短編の正確を知るためにはまず舞台となったアルザスがどんなところなのか、その言語史的な背景を知っておく必要がある。・・(中略)・・その時以来、アルザスの北部では今日でもドイツ語のフランク方言、南部はスイス・ドイツ語に近いアレマン方言が話されている。・・(中略)・・アルザスの土着の人のことば、すなわちアルザス・ドジン語(ママ)はまぎれもないドイツ語の方言である。それをドーデは、「ドイツ人たちにこう言われたらどうするんだ。君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちのことばを話すことも書くこともできないではないかと」というふうにアメル先生に言わせているのである。いったい自分の母語であれば、書くことはともかく、話すことができないなどとはあり得ないはずだ。だからこの一節は、この子たちの母語がフランス語でないことをあきらかにしている。」
*(「話す」を「読む」に直した訳もある)なぜでしょう?

こういう歴史的背景抜きには読むことのできないこの「最後の授業」という作品は、小学校の教材からは、消えました。
 詳しくは『消えた「最後の授業」―言葉、国家、教育―』府川源一郎 (1992/07) 大修館書店に記されています。

*「言葉、国家、教育」について考えさせる授業展開

@アルフォンヌ・ドーデ『最後の授業』を読む。
A疑問点を探し出せるか。
B資料を配る。
Cなぜ教科書から消えたのか。
D「言葉、国家、教育」について考えさせる。
                           
 


W 「最初の授業」を振り返る

 30数年前、教育実習で河井酔茗の詩「ゆずり葉」に寄せて授業をしたことを思い出しました。

 これぞこの春を迎うるしるしとてゆずるはかざしかえる山人   知家
 年末年始の山仕事を終え、ゆずりはをかざして帰る山人の姿を詠んだ和歌ですが、新春を迎えるにあたっては欠かすことのできない、大事な木の葉であったようです。神に供える酒食をその葉の上にのせた風習は、現在、鏡餅・お供えの下敷きとして裏白と共に使われています。

 枕草子にも祖霊に捧げるものをのせる「敷物」として述べられ、
 ゆずりはの いみじゅうさやかにつやめき  茎はいと赤く きらきらしく見えたるこそ あやしけれど いとおかし
と清少納言独特の表現で愛でています。

 ゆずりはの名の由来は、古い葉が、目立たぬようにぼつりぼつりと落ちて新葉にその位置を譲っていく「譲葉」、つまり人の世も若い人に上手に世代を譲っていかなければならない、というところからきています。
 しずかなる冬木の中のゆずり葉のにほう厚葉に紅のかなしさ 茂吉

 「ゆずり葉」  河井酔茗

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り変わってふるい葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずってーー。

子供たちよ。
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです。
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどーー。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでしょう。

河井酔茗1874〜1965。大阪府堺市生れ。東京専門学校中退。「文庫」 の詩欄を担当し、いわゆる文庫派詩人を形成。のち詩草社を設立し、 口語詩運動に寄与した。代表作に『無弦弓』『塔影』等がある。
譲り葉 トウダイギサ科の常緑高木。高さ6メートル内外。若い枝と 葉柄とは紅色をおびる。葉は長楕円形で厚く、雌雄異株。4、5月の 頃、緑黄色の小花を総状に配列し、楕円形の核果を結び、11月頃熟 して暗緑色となる。新葉が成長してから旧葉が落ちて譲るのでこの名 がある。葉を新年の飾り物に用いる。
                                  
   
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