自民党は2005年10月28日、現行憲法を大幅に改正する内容の「党新憲法草案」を公表した。9条については、1項の戦争放棄条項は残しながら、「自衛軍」の保持を明記。11月22日の自民党結党50年記念大会で正式発表の予定という。構成は現行憲法をほぼ踏襲している。比較し読んで考えよう。
(注)自民の新憲法草案の条文番号は、現段階では、参照の便宜のため現行憲法とそろえられている。
自民党新憲法草案に対する新聞各社の「社説」
自民党が28日に決定した自民党新憲法草案に対する(2005年10月29日)の朝日、読売、毎日、東京中日、日経、産経、北海道、神戸、中国、西日本、沖縄タイムス、新潟日報、しんぶん赤旗、信濃毎日と、(30日)の琉球新報、京都新聞の「社説」を以下転載します。
●<朝日> 自民改憲案 なぜ「軍」にしたいのか
自民党が「新憲法草案」を決めた。自衛隊を自衛軍と改め、明確に軍隊と位置づけたのが特徴だ。1955年の結党以来、党是に掲げてきた自主憲法制定にようやく党としての正式な案ができた。
50年前の結党時には盛り上がっていた改憲論だが、高度経済成長に入るとすっかりしぼんだ。自他ともに認める改憲論者の中曽根元首相でさえ、80年代の首相在任中に手をつけようとしなかった。時代の空気にそぐわないと感じ取ってのことだったろう。
それが動いたのは、冷戦の終結以降、自衛隊の海外派遣や北朝鮮の動きといった新しい展開が続き、国民の意識が変化してきたことが底流にあった。そのなかで小泉首相が、結党50周年に向けて草案づくりを指示した。
「翻訳調」などと評判の悪かった前文について、草案の記述は意外なほど素っ気ないものに落ち着いた。日本独自の歴史や伝統への言及はなく、論議を呼んだ「国防の責務」や「愛国心」といった復古色の濃い言葉はソフトであいまいな表現になった。
公明党や民主党との調整を意識したのかもしれないが、伝統的な改憲論者たちに失望感が出ているほどだ。
その一方で、現行の前文にあるような平和への熱い思いは語られていない。
問題は9条である。軍隊としたのは、世界有数の装備を持つに至った自衛隊の現実を認知するとともに、一人前の国家として当然の構えを持ちたいということだろう。政府見解で否定されている集団的自衛権の行使に道を開く狙いもある。
だが、それによって今の自衛隊はどう変わるのか、どんな役割を果たせるようになるのか、歯止めはあるのかといった肝心の中身はまったく抜け落ちている。
そうした点は、この憲法規定に基づいて安全保障基本法、国際協力基本法を定めて具体的に盛り込むのが自民党の構想だという。だが、それこそが9条にかかわる憲法論議の根幹ではないのか。
イラクでの英国軍のように米軍と肩を並べて戦うのか。あるいはいまの自衛隊と同じような原則を保ち、あくまで抑制的な役割に徹するのか。この草案ではどちらも可能に読めてしまう。
本来、憲法案づくりと並行してそうした議論を詰めなければならないのに、置き去りにしたまま字句の手直しだけが先行した。とりあえず器だけをつくり、中に盛る料理はあとで考えると言っているに等しい。
いまの9条には賛否があるが、海外で武力行使はしないという原則に徹するからこそ、自衛隊が国民に評価され認められてきたのは動かしがたい事実だ。日本に侵略され植民地化されたアジア諸国にとっても、日本の不戦の誓いという意味をもってきた。
そんな9条を改め、再び「軍」を持つ憲法にしたいというなら、それだけ説得力のある論拠を示す必要がある。小泉首相の靖国神社参拝をめぐって日本の過去との決別が問われているいま、なおさらである。
国際社会とりわけアジアで、日本はどのような役割を果たしたいのか。大きな絵の中に9条改正の論議を重ね合わせない限り、国民も近隣国も安心できる案にはなり得ない。
自民党は結局、9条の手直しに求められる根幹の議論を先送りしたともいえる。結党から50年でたどり着いた改憲の姿としては中身に乏しい。
●<読売> [自民新憲法草案]「国民的論議へ重要なたたき台だ」
戦後の憲法論議の歴史上、画期的なことである。
自民党が来月の結党50年を前に、新憲法草案を公表した。自民党は1955年の結党以来、憲法改正を党是としてきた。だが、日本の社会・経済も、国際社会も、憲法制定時とは別世界と言えるような変貌(へんぼう)を遂げた。
「憲法改正」ではなく、「新憲法」としたのは、大きな時代の変化から、もはや「改正」ではなく、21世紀の国家、社会像を体現する「新」憲法でなければならない、という判断からだろう。
かつての55年体制の時代は、保革のイデオロギー対立の下で、“護憲原理主義”が根を張った。自民党も、当時の社会党との対立による政治的混乱を避けるため、次第に憲法改正に正面から取り組む姿勢を見せなくなった。
だが、90年代以降、憲法をめぐる状況は大きく変化した。
冷戦終焉(しゅうえん)直後の湾岸戦争は、日本の「一国平和主義」の幻想を打ち砕いた。2001年の米同時テロ後には、国際テロが国際社会の平和を脅かす一方、アジア太平洋地域では、中国の軍事大国化や北朝鮮の核兵器開発が、日本と地域の安全保障環境を不安定にしている。
焦点の9条について、草案は、第1項の平和主義は継承しつつ、戦力不保持の第2項を削除し、「自衛軍」の保持を明記した。自衛軍の任務として、新たに国際平和協力活動などを加えた。草案には明記していないが、解釈上、当然、集団的自衛権を行使できるとしている。
冷戦後の安全保障環境の変化を考えれば、ごく当たり前のことだ。
権利・義務については、草案は、個人情報の保護、犯罪被害者の権利、知的財産権、国の環境保全の責務などに関する条項を置いている。情報社会化や環境破壊、治安の悪化など、社会・経済の変化に対応するものだ。
地方自治について、新たに国と地方の役割分担や、地方自治体の自主財源などを明記した。地方分権の時代には必要な規定だろう。
自民党草案は、新憲法へ論議を進める重要なたたき台だ。民主党も憲法提言を取りまとめるという。民主党の前原代表は重要問題については、すべて対案を提示するとしている。憲法問題でも、大いに競い合ってもらいたい。
何よりも国会での論議の場が必要だ。衆院の憲法調査特別委員会を憲法常任委員会に衣替えし、参院にも同様の委員会を設置すべきだ。論議を通じて、憲法改正の発議に必要な国会議員の3分の2の勢力を形成することにもつながる。
●<毎日> 自民自主憲法案 これで国民を動かせますか
現行憲法を新たに制定し直そうという自民党の新憲法草案が党議決定された。注目点は、憲法全体の理念を示す前文と、改憲論議の対立点となっている「9条」である。
初めて文章のかたちで示された前文の草案は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の基本理念は継承しているが、表現は現行前文の痕跡をとどめない全面書き換えとなった。起草委の全体会議では、中曽根康弘元首相がまとめた保守色の強い「素案」が退けられたことに、一時紛糾したという。
まず冒頭から自主憲法であることを訴えている。現行憲法が「占領下の押し付け」との被害者意識を裏返したような気負いを感じる。新憲法を制定しようとするからには、なぜ必要なのかの理由が欠かせないのに、前文草案にそれがない。強い違和感を覚える。
現行憲法の前文には、戦争の反省がにじみ出ている。敗戦後の国づくりの出発点として新たな憲法を作ったことが前文から読み取れる。戦後60年が経過した現在も、前文から戦争の反省を外す理由はないはずだ。将来の「国のかたち」も歴史から逃れられないのは言うまでもない。
現行の「翻訳調」「悪文」の批判を意識しすぎたのだろうか。前文草案は短く、機能的文章の羅列になった。文学的表現を徹底的に排している分、格調も重厚さもなくなった。なにか学者の論文か要約文を読まされているような味気なさがつきまとう。
ただ、注意深く目をこらせば、この短い前文草案の中に「自民党らしさ」の必要十分条件である(1)自主憲法(2)天皇制の維持(3)愛国心(4)国防の意識−−が巧妙にちりばめられている。党内の一部に根強くあった「国家主義」や「復古調」の表現は薄められたものの、現行憲法に感じる一種の味わい深さは失われてしまっている。
一方、9条草案は戦争放棄をうたった1項は現行憲法を踏襲している。2項は全面的に改められ「自衛軍」の保持を明記した。その活動は「国会の承認その他の統制に服する」と規定。さらに自衛軍の活動内容には国際貢献や緊急事態への対応などその任務をくどいほど細かに定めている。
改憲論議での国民的関心事は集団的自衛権行使の是非だった。なのに自民党は憲法に「自衛権」の有無を書き込まないと言ってきた。草案を見ただけでは、集団的自衛権をどこでどう行使するのかが分からない。憲法で記すには「余分」と思えるほど言葉は費やしているが、肝心の問題点がはっきりしない。別途「安全保障基本法」や「国際協力基本法」を制定し、自衛権の制約範囲を定めようという腹づもりらしい。
イラクへの自衛隊派遣をきっかけに憲法を現状に近づけたいというこれまでの主張からすると、焦点の問題で自民党の意図が読み取れない。国民を納得させる工夫が必要ではないか。
総じて、自民草案は国民の気持ちを改憲へ動かせるまでの内容とは言えまい。
●<中日新聞・東京新聞> 自民憲法草案 みんなで突こう問題点
自民党が新憲法草案を公表した。結党して半世紀。総選挙の歴史的大勝を背景に「ここで悲願成就」の意気込みも伝わってくる。じっくりと考えたい。その中身は歴史に堪えるものかどうか、を。
現行憲法の改正には、衆参両院議員の三分の二以上による発議と、国民投票での過半数の賛成がいる。これは相当にハードルが高い。自民党の草案はそこを意識して、まずは野党民主党の同調が得られるような工夫を凝らした。
「前文」の表現がそのいい例だ。原案の段階ではあった、愛国心や国防の務めを強調したり、天皇を国民統合の象徴として「戴(いただ)く」としていた部分を、まろやかに、あるいは簡潔な文言に変えている。
愛国心や国防では「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」と遠回しに、天皇部分は「象徴天皇制はこれを維持する」と、ひと言で片付けた。
前文は現行憲法のほぼ半分の行数となり、国民主権、民主主義、自由主義、基本的人権、平和主義、国際協調主義と、やたら漢字が並ぶ。短く、短く、揚げ足を取られないように。現行前文の基調にある、過去の戦争への嫌悪や反省は跡形もない。
ここでいう国際協調は、前文と並ぶ焦点であった新九条の三項「自衛軍は国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動ができる」に結びつく。現行九条一項の「戦争放棄」規定はいじらず、二項の「交戦権否認」を削除することで、海外での武力行使を禁じた戦後日本の縛りを解いている。
改憲を是とする世論が増える半面で、九条を改めることに否定的な声はなお多い。国民はどう受け止めるだろう。さまざまな分野からの問題点指摘、真摯(しんし)な議論を求めたい。
前文に一カ所ある「(国民の)責務」の文言は、一二条で「自由及び権利には責任及び義務が伴う」と一括された。起草委事務局によれば、国防や家庭を守る規定がここに含まれる。二〇条(信教の自由)には、首相の靖国参拝違憲訴訟をかわすような文言が挿入されている。
統治する側の恣意(しい)的解釈で、いかようにもなる憲法条項には、統治される側からの歯止めが欠かせない。油断せず、眼光紙背に徹しての検討を要しよう。
知る権利や環境権が明記された。「国は国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」「国民が良好な環境の恵沢を享受することができるようにその保全に努めなければならない」。今の憲法で無理だったことか。自民党政治はどうだったか。これも草案の真贋(しんがん)を読み取る材料だ。
●<日経> 新憲法草案、民主・公明も自民に続け
自民党が結党50年に合わせて策定をめざした新憲法草案の全容を公表した。政党として初めて前文を含めた新憲法の具体案を条文の形で示したことは評価したい。民主党や公明党も来年には憲法改正の具体案をとりまとめることにしている。21世紀にふさわしい新憲法制定をめざすプロセスは日本の民主主義を深化・発展させる上からも極めて重要である。
新憲法制定は自民党単独ではできない。衆参両院の3分の2以上の賛成で国民に発議し、国民投票で過半数の賛成が必要である。自民党内ではこれまで様々な論議があったが、新憲法草案が民主党や公明党とのすり合わせを意識して、常識的な内容に落ち着いたのは当然だろう。
草案は前文の冒頭に「日本国民は自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」と明記した。明治憲法と現行憲法は制定プロセスが非民主的であった。新憲法は主権者である国民が主体的に制定する初めてのケースであり、その歴史的意義は計り知れない。前文は新憲法の理念や目標を簡略に記した内容になっている。格調には欠けるが、余計なことを書かないのも一つの見識である。
自民党草案の主な改正点は(1)9条を改正して自衛軍保持と国際貢献を明記(2)首相の権限として衆院解散権、自衛軍の最高指揮権、行政各部への指揮監督権を明記(3)地方自治の規定の充実(4)環境や個人情報、国の説明責任などの規定の追加(5)憲法改正の国会発議の要件を衆参両院の過半数に緩和――などである。
集団的自衛権をどこまで行使できるかは安全保障基本法に委ねられることになった。安全保障基本法の内容も早期に国民に提示すべきだ。地方自治に関しては、国と地方の役割分担や地方の財源に関する規定がなおあいまいである。より明確な規定にすることが今後の課題である。
自民党草案で参院や二院制のあり方が現状維持になっているのは納得できない。参院が郵政民営化法案を否決して衆院解散の引き金を引いたばかりである。参院が衆院とほぼ同等の権限を持っていては議院内閣制の原則と矛盾するのは明らかだ。参院の権限を縮小し、衆院優位の原則をより強化することが望ましい。
自民党がせっかく新憲法草案を公表しても、これを国会で審議する場がどこにもない。国民投票の手続き法もまだ制定されていない。新憲法の制定はあわてる必要はないが、一部の政党の思惑で意図的に遅らせるのはよくない。
●<産経新聞> 自民新憲法草案 国を守る責務は評価する
自民党の新憲法草案がまとまった。昭和三十年の結党時の綱領に「現行憲法の自主的改正」をうたいあげてから、五十年かかって政権政党による条文化案が国民に初めて提示された。
自民党案は不十分さは残るが、「国を自ら守る責務」を前文に盛り込み、「自衛軍保持」を明記した。現憲法に希薄な「共同体としての国家」を明確に打ち出したことを支持したい。
民主党は月内に憲法提言をまとめる。与野党は自民党案をたたき台に、よりよき改憲案を早期にまとめなくてはなるまい。現憲法が想定している世界と現実との乖離(かいり)の広がりを考えれば、いまや猶予は許されない。
自民党案は前文で「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る」責務を共有するとした。国防の責務は国民である以上、当然だ。さらに「国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う」ことも明記した。
国際社会の平和と安全のために日本がすべての面で積極的に貢献する決意を示したことは評価できる。ただ、原案にあった日本の伝統、歴史、文化などの記述が消えたのは残念だ。
核心である九条改正では、「自衛軍」を明記したものの、戦争放棄条項である一項はそのままにした。「軍」の明記は、主権国家の自然権を認めたに過ぎず、当たり前の規定である。
一項は、侵略のための「戦争と武力の威嚇、行使」放棄を意味するが、そう認識されなかったことが問題なのだ。表現を明解にすべきだった。
一方で、新しい「権利」として、知る権利や環境権などが追加された。
公明党や民主党などとの協調を重視したためである。九条一項の維持も「加憲」を検討している公明党へ配慮した側面も否定できない。
確かに、憲法改正発議のためには「三分の二」勢力をまとめなくてはならない。自民党は持論を引っ込めることもあるかもしれない。だが、今は保守政党として、新しい憲法をいかに国民とともに創(つく)るかが問われている。
自民党らしさを失って、その責任は果たせない。改憲を掲げる前原民主党とともに、あるべき国家像を詰め、新しい時代を切り開く改憲案をまとめることが次の喫緊の課題である。
●<北海道新聞> 自民新憲法案*九条改廃の本音あらわ
戦前に逆戻りするかのような復古調も、国民を高見から諭すような居丈高さも見当たらない。
党内の過去の改憲論議を振り返ると、見かけは意外に穏やかだと言えなくもない。自民党がまとめた新憲法草案の印象だ。
ただ、その分、戦後日本の国の姿、国際社会での立ち振る舞いを定めた今の憲法九条(戦争放棄、戦力不保持・交戦権の否認)だけは、何が何でも変える。その改憲の本音ばかりがむき出しになっている。
ふつうの軍隊を持ちたい。これが、新憲法草案のすべてといってもいい。
草案は、「自衛軍」を置き、国と国民の平和や安全を守る。同時に、自衛軍は国際的にも、協調して平和と安全確保の活動ができる、としている。
ありていに言えば、自衛隊を各国と同じ軍隊組織に変え、制約を受けずに海外での戦闘、武力行使もできる方向へと大きく道を開くものだ。
現在の憲法九条を根本から覆すものであり、このままで認めることはとてもできない。
自民党草案は、今の九条一項(戦争放棄)は残したが、二項(戦力不保持・交戦権の否認)を完全に捨て、新しく「九条の二」の条文をおこし、自衛軍に関する規定を置いている。
現憲法の戦争放棄規定とほぼ同じ規定は、国連憲章にある。同様な規定を持つ憲法は諸外国にもある。
日本の九条が世界的にも注目されているのは、第二項で戦力不保持・交戦権の否認をうたっているからだ。
この結果、同盟国と一緒に海外で軍事活動を行うといった集団的自衛権の行使はできない−というのが歴代政府の解釈でもあった。
九条によって、日本は二度と侵略国家にはならないことを、世界に、なかでも日本の侵略を受けた近隣諸国に向けて宣言したともいえる。
そのことへの信頼を基礎に、戦後の平和と安全、繁栄をつむいできた事実は重たい。
現憲法と自衛隊の存在は矛盾するという主張がある。ただ、国が自衛する権利は当然ある。自衛隊が専守防衛に徹する限りは、憲法と矛盾しない、と私たちは考える。自衛隊認知のために「軍」とする必要はとぼしい。
海外派兵につながる集団的自衛権については、自民党草案は、当然行使できるという前提で触れていない。改憲での最大の焦点である集団的自衛権を素通りすることは、認められない。
そもそも「自衛」の定義や限定もない。侵略戦争でさえ自衛の名目で行われてきたのが世界の歴史だった。
もろもろの問題は、法律で決めれば済むというのが自民党の考えだ。しかし、それは違う。権力の暴走を防ぐための最高法規が憲法だ。そこをうやむやにして、憲法とは言えない。
●<神戸新聞> 自民憲法草案/「たたき台」になり得るか/「日本国民は、自らの意思と決定に基づき、主権者として、ここ
前文で、こう書き出す自民党の憲法改正草案が発表された。古めかしい文体でわかりにくいという声もある現憲法を意識したためだろう。平易な表現を心がけたようだが、憲法の顔というべき格調の高さに欠ける。いまの憲法に平和国家へ踏み出す「決意」がほとばしっているのに比べ、それを超える「理念」がないためだろうか。
「愛国心」は「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を有し」と表現を和らげ、国土、自然、歴史、文化を柱とした「国柄」は加えなかった。できるだけ幅広く支持されるよう配慮したためだろう。
それでも、改正条文には、この政権党の「憲法思想」が随所に顔を出す。
焦点の九条では、内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛「軍」を保持する、とした。さらに、国際的に協調して行われる活動及び緊急事態と断りつつ「国際社会の平和と安全を確保するために」海外での武力行使も可能にした。
「普通の国」願望なのだろうが、「専守防衛」からの大転換がすんなり受け入れられるだろうか。
集団的自衛権は明記しなかったが、「自衛権に含まれる」として容認方向だ。しかし、どのような場合を指すのかあいまいで、宮沢喜一元首相が指摘するように「詰め切れず、問題を後に残した」。
「国民の権利と義務」の条文も首をかしげる。「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないよう」「濫用(らんよう)してはならない」とした。
「公共の福祉」を「公益、公の秩序」に置き換えた背景には、少年犯罪など社会の乱れの原因が憲法にあるという考え方がにじんでいる。国家権力が暴走しないようにさまざまな規定を設けるという近代憲法の基本原理は念頭にないようだ。
新たな権利として、環境権やプライバシー権など五つの権利を新たに規定したが、いかにも中途半端な印象が否めない。「国民が良好な環境の恵沢を享受する」責務を国に課す程度なら、現行一三条の「幸福の追求権」で読み取れるという反論が当然出るだろう。
自民党としては、この草案発表をきっかけに、改正論議を盛り上げたいということだろうが、それに堪え得る「たたき台」かといえば、うなづきにくい。
●<中国新聞> 自民新憲法草案 国民の理解得られるか
自民党がきのう、十一月の立党五十年記念式典で示す新憲法草案を発表した。草案は前文で「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」と明記する。最も注目される九条では「自衛軍」の文言を盛り込み、現行の平和憲法の「のり」を超える構えだ。併せて改憲の国会発議の条件を緩和している。戦後の流れを変える草案、どこまで国民の理解を得られるか。
自民党の改憲の本丸は九条第二項の書き換えにある。現行憲法が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」としているのに対して草案は「自衛軍を保持する」と記述。自衛軍は法律の定めるところによって「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し…」としている。
抽象的な表現だが、例えば国連軍に加わったり米国によるイラクでの有志連合など集団的自衛権の行使も合憲と解釈できるようになる。それは突出した軍事大国になった米国の世界軍事体制に日本が名実ともに組み込まれ、補完的な役割を強めていくことにつながりかねない。
世界は今、欧州連合、中国などを柱とした東アジアなど多極化の動きも活発だ。日本は地政的、経済的にも東アジアとの連携がますます重要になっている。テロ対応問題で曲折があるにしても長い目でみれば、軍事に傾斜した「日米同盟」は時代遅れになる可能性もある。
目立たないが、司法権に関する七十六条で自衛軍とセットで法律の定めによって「軍事裁判所を新設」している点も軍事化の印象を強めはしないだろうか。下級裁判所にとどめるものの、自衛隊から「自衛軍」への変質を端的にうかがわせる。
軍事裁判所の存在は「自衛軍人」の行動や意識に影響を与えたり、秘密主義に陥る危険性を持っている。一般社会との分断を図るような機関は、あってはならないはずだ。
草案は九条改定を震源に、信教の自由についても新しい規範を提示している。現憲法では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」とあるのに対して「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって…」と表現。大論争を巻き起こしている小泉純一郎首相の靖国神社参拝を、社会的儀礼にとどめる含みをもたせているように思われる。
気になるのは改憲の国会発議の条件である。「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」を「各議院の総議員の過半数の賛成」と緩和している。これでは時の与党の意思一つで、国民投票に問いかねない。民主国家の最高法規として憲法への対処には、なによりも慎重さが要る。
自民党の草案に、東アジア諸国が戦前回帰の危惧(きぐ)をつのらせる可能性もある。戦後六十年、一度も交戦することなく、自らも外国の兵士も犠牲にすることがなかった日本のありようを自民党は変えようとしている。国民は改憲でなにを得られるのか。失うものはないのか。自民党は逐一、説明する責任がある。
●<西日本新聞> 自民憲法草案 平和主義が変質しないか
結党以来五十年間、「自主憲法制定」を党是として掲げ続けてきた自民党が、新憲法草案を発表した。
最大の焦点となる九条については、「戦争の放棄」を定めた一項をそのまま残す一方、「戦力の不保持」をうたった二項は全面改定し、「自衛軍」の保持を明記した。
自衛軍の任務としては、国の独立や安全確保のための活動のほか「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」などを加え、集団的自衛権行使への道を開いている。
この九条改正案は、戦後日本を取り巻く国際情勢の変遷と、その帰結としての日本の「現状」を反映している。
現行憲法は敗戦翌年の一九四六年に公布された。敗戦とともに旧日本軍は解体されており、当時の日本は名実ともに「戦力をもたない国」だった。
その後の冷戦時代に誕生した自衛隊は、役割を「専守防衛」に限定しながらも西側の軍事組織として力を蓄え、冷戦構造崩壊後も米国の世界戦略の一端を担ってきた。
今や世界でもトップレベルの装備を誇り、「テロ防止」や「人道支援」などの名目で海外にも派遣されている。
そうした意味で、「戦力不保持」の文言を削除することは、憲法を現状に合わせる作業とも言える。
だが、国の最高法規であり、国家の姿を規定する憲法に求められるのは、現状の追認ではあるまい。国民が共有できる「理想」を掲げ、それを世界に示す役割を担っているはずだ。
「戦争の放棄」は、過去への反省を踏まえて戦後日本が掲げた理想であり、今も大多数の国民が支持している。その理想が六十年間にわたって守られてきた背景には、「戦力不保持」を明記した九条二項の抑止効果があったはずだ。
自衛隊を「軍」と呼ぶことを許さない憲法条文の存在が、日本の軍備拡大に歯止めをかけ、平和国家のイメージ形成に寄与してきたのは間違いない。
今の国際社会で「自衛隊は戦力ではない」と主張しても、通用しないだろう。「戦力不保持」は既に虚構と化しているのかもしれないが、それを虚構として捨て去ってしまっていいのかどうか、簡単に結論を出せる問題ではない。
近年の世論調査では、改憲容認が過半数を占める一方で、九条については改正反対が賛成を上回る傾向が目立つ。
九条を変えることで、戦後日本が国是としてきた平和主義そのものが変質する懸念を、ぬぐい切れないからだろう。
憲法改正の国会発議には、衆参両院それぞれ三分の二以上の賛成が必要だ。
自民党単独での発議が不可能な以上、今回の改憲案は発議に向けた「たたき台」のひとつにすぎない。それを前提として踏まえた上で、国民レベルの論議を深めていく必要がある。
●<沖縄タイムス> 戦争できる国にするのか
「平和」の理念が揺らぐ
戦後六十年、日本は戦争をしない国家として平和な国づくりをしてきた。その柱が憲法九条で掲げた「戦争放棄」条項であり、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という自らを律した崇高な理念であった。
自民党が十一月十五日の結党五十周年を前にまとめた憲法改正草案は、平和憲法の核心である第九条について、戦争放棄こそ踏襲したものの自衛隊を「自衛軍」にし、戦力の不保持と交戦権の否認を削除している。
軍隊への格上げは、日米同盟が強化される中で集団的自衛権の行使に道を開き、自衛のための戦争をも放棄した現憲法の理念を百八十度転換するものになるといっていいのではないか。
国民に信を問うべき内容であり、なぜそうなのか―という疑問に答えるのは当然として、広く国民の間で議論する必要があろう。
戦後の日本は、いかなる国際紛争に対しても軍事力を行使できぬよう自らを戒めてきた。それが世界でも類のない平和国家を築き、国際的な信用を得てきた理由であったはずだ。
私たちが危惧するのは、軍隊と位置付けることによってその信頼が損なわれないか、ということである。
「平和主義の理念」を「将来にわたり堅持する」方針は堅持している。だが「自衛軍」を定めた第二項で「国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」とした。
国際協調主義を盛り込んだのは、米国や国際連合の要請によって積極的な国際貢献を意図したものであろう。
また前文で「国民は国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し…」とする文言も国防への強い姿勢を打ち出したといえる。
自衛軍の活動には、事前の国会承認を求めなければならない。いったん軍事力が行使された場合、政治がないがしろにされる恐れは否めず文民統制にもかかわってくるからだ。自衛軍の活動に“たが”をはめる役割は国会が担っていることを忘れてはならない。
日米軍事同盟の強化へ
日本の平和は憲法九条によって守られてきた。だが、小泉政権による日米同盟の強化策は、現憲法ではできないはずの軍事的な協力関係を拡大させてきたことも確かだろう。
一九九九年に周辺事態法が制定され、さらに有事関連三法が整い、二〇〇四年には国民保護法が制定された。
〇一年九月の米同時多発テロ後のイラク戦争以降は、ブッシュ政権に要請されるまま有志連合を支援するためにペルシャ湾に海上自衛隊を派遣。サマワにもイラク復興支援特別措置法で陸上自衛隊を送った。
九条第一項を包囲する動きといえ、その改正を念頭に置く長期的戦略と見る国民は少なくない。
もう一つは、米軍再編に伴うアジア地域での日米の共同歩調である。
米国は中国を仮想敵国とし、北朝鮮を危険視するプロパガンダの中で自衛隊を後方支援ではなく「共に戦う軍隊」に変えようとしてきた。
米国にとっては太平洋を挟んだ軍事的なアジア戦略であっても、日本には一衣帯水の関係にあり緊密さが求められる隣国との問題ではないか。
独自のアジア外交こそ日本がとるべき戦略であり、九条改正がアジア諸国に与える影響に十分考慮すべきだろう。米国一辺倒の外交では国を危うくし危険だということを知るべきだ。
県民の暮らし守れるか
改憲草案の焦点である九条関連条項は、沖縄の基地にも影響する。
県民は戦後二十七年間、平和に暮らす権利を奪われてきた。一九七二年の復帰は、平和憲法の下で基本的人権を回復する意味も有していたはずだ。
しかし昨年八月の沖国大構内への米軍ヘリ墜落事故のように、基地による危険性は改善されず、主権ばかりか平和に暮らす権利さえ脅かされてきたことを見過ごしてはならない。
復帰時の「核抜き本土並み」という約束が反故にされ、今また県民の頭越しに決着を図る普天間飛行場のキャンプ・シュワブ沿岸部への移設合意も、県民にとっては平和憲法をないがしろにする行為と受け止めざるを得ない。
民主党も改憲案を打ち出す。国会の場で徹底的に論議するのは当然だが、平和を求める県民の暮らしに不安感を抱かせる草案には、沖縄の側からも厳しい目を絶やさずにおきたい。
●<新潟日報>自民憲法草案 一向に理念が見えない
来月二十二日の結党五十年式典で正式発表される自民党の憲法改正草案がまとまった。衆参両院で四百八議席を持つ巨大政党が、改憲への具体的一歩を踏み出した。
あらためて指摘するまでもなく憲法は国の根本法規であり、国の形や進むべき方向を指し示す意味を持つ。同時に、国家権力の乱用から国民を守ることが現代の立憲主義の大原則である。
草案がこの国の羅針盤となるのかどうか。国家権力の乱用を許さない、国民のための憲法案になっているか。世界と日本の未来を見据えながら、国民的な憲法論議を巻き起こしたい。
草案のポイントは四つに絞られる。前文と九条、国民の権利・義務と憲法改正の発議要件についてである。環境権なども盛り込まれたが、大半は現行憲法の旧仮名遣いを改めるなどにとどまった。
「自主憲法制定」という意気込みに反して、改憲の理念が感じられず、気概にも乏しいと感じるのはなぜか。
先の総選挙で与党は衆院の三分の二を占めた。民主党を合わせると改憲を志向する政党は両院の三分の二を超える。
憲法改正が現実味を帯びたことが、前文から「復古調」や「国家主義」的傾向を消し去った。連立を組む公明党や野党第一党の民主党の賛同を得やすい草案にとの配慮が働いたことは明白だ。
現行憲法が「戦争の放棄」と章立てしている九条の改正こそが草案の核心であろう。その第二章は「安全保障」と書き改められ、自衛軍の保持と国際協調下での活動を明記した。
だが、集団的自衛権や海外での武力行使についてはあいまいだ。現行憲法下でも世界有数の軍隊である自衛隊を持ち、イラクにまで派遣している。草案からは改正の必然性が見えてこない。
自民党らしさが感じられるのは国民の権利・義務についての規定である。自由や権利には責任と義務が伴うことをうたい、「公益と公の秩序」に反しない範囲で自由や権利を行使すべきだとする。
立憲主義の観点に照らすと違和感があるといわざるを得ない。「公益」の定義次第で、基本的人権が損なわれる恐れがあるからだ。憲法改正の発議要件を両院の三分の二から過半数に引き下げた点も大きな論点となることは必至だ。
憲法改正に欠かせない国民投票法案が政治日程に上ろうとしている。改憲の足音は確実に近づいてきた。
改憲案が有力政党から示されたのは今回が初めてである。いま必要なのは、憲法の理念とは何かという根源に立ち返って論議を深めることであろう。
●<しんぶん赤旗> 自民党新憲法草案 平和こわしを国民は認めない
自民党が、「新憲法草案」を発表しました。結党いらい五十年、改憲を党是としてきた自民党ですが、改憲案を、前文を含めて条文化したのは初めてです。
自民党は、総選挙マニフェストで「日本の基本を変える」として、「『新憲法制定』に向けて具体的に動きます」と書いていました。「新憲法草案」が変えようとしている「日本の基本」とは何でしょうか。
■侵略の反省と平和原則
日本国憲法前文の最初の文章は、「…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と結ばれています。前文をうけて、第九条は、第一項で戦争放棄、第二項でそれを裏付けるものとして、戦力の不保持、交戦権の否認を明記しています。これこそ、侵略戦争の反省にたって、二度と戦争を起こさない国として歩むという「日本の基本」を定めた平和原則です。
自民党の「新憲法草案」の最大の特徴は、この平和原則を投げ捨てることです。前文を全面的に書き換え、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という言葉を、完全に削除しています。九条二項も完全削除し、代わって「自衛軍を保持する」と明記しています。
「新憲法草案」は、九条一項を残し、「平和主義」を「継承」するかのような装いもとってはいます。しかし、九条二項の廃棄は、「戦争放棄」を規定した一項をふくめた九条全体を廃棄するのと同じです。「戦力保持の禁止」という二項の規定が「歯止め」になり、自民党政府も、「海外での武力行使はできない」という建前を崩すことはできませんでした。九条二項を廃棄して「自衛軍」保持を明記することは、その「歯止め」を完全に取り払うことを意味します。現に、「新憲法草案」は、「自衛軍」といいつつ、海外派兵もできるようにしており、イラク戦争のような戦争に参戦する道を開くものとなっています。
侵略戦争への反省を捨て、軍隊保持と海外派兵の道に「日本の基本」を変えることは、国民の自由、人権の抑圧につながります。
たとえば、自民党の「新憲法草案」は、前文で、国民にたいして「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を課しています。「国を守る責務」の具体化として徴兵制導入の法律を作っても憲法違反とはならない仕掛けにしています。
また、現憲法第一二条は、自由と権利を獲得してきた歩みを想起する趣旨なのに、「新憲法草案」は、「公益及び公の秩序に反しない」ようにすることを「国民の責務」とし、国民の自由や権利よりも「公の秩序」を優先させています。
さらに、自民党「新憲法草案」は、「司法」の部分で、「軍事裁判所を設置する」規定を新設しています。「軍事に関する裁判」の対象が軍人に限定されるとは限りません。“軍の機密を守る”という名目で一般国民も憲兵隊の監視対象とされ、「軍事に関する」法律に違反したとみなされれば、軍事裁判所で裁かれる可能性もあります。
■「不断の努力」によって
自民党の「新憲法草案」は、平和をこわします。国家権力を強め、国民の自由を抑圧します。
こんなものを国民は認めません。日本国憲法の規定どおり、「不断の努力」によって、平和と人権・自由を保持していきましょう。
●<信濃毎日新聞> 自民憲法案 おいそれとのみ込めない
自民党が新憲法草案を決めた。大枠では現行憲法を踏まえている。現実的な改正の方向を探ったと見ることができる。中身を一つ一つ、注意深く検証する姿勢が大事になる。
自民党は新しい憲法の制定を党是に掲げている。来月の立党五十年に向け、起草委員会をつくり検討を重ねてきた。最後に残された前文も今回仕上がり、党として目指す方向が固まった。
草案は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重の三つの原則に加え、象徴天皇制を維持した。天皇元首化の論議は引っ込めた。前文に始まり、天皇、安全保障、国民の権利・義務などと続く章立ても、現行憲法とほとんど同じである。
独自色を打ち出すと言われていた前文も、従来の党内論議で浮上していた保守色をかなり薄めた表現に落ち着いた。
例えば、今月初めに前文小委員会がまとめた素案は、日本の地理的、歴史的な位置付けを美文調でうたい上げていた。「国を愛する」との表現もあった。いずれも最終案からは消えている。
新憲法と銘打っても、いまの憲法の枠組みを大きく外すことができない現実を踏まえたといえる。見方を変えれば、公明党や民主党の動向に配慮しながら、できるところから改正に向かう狙いとも受け取れる。
さしあたり二つの点に注意を払いたい。一つは、九条の改正である。草案は九条一項の戦争放棄は残したものの、二項の戦力の不保持を削除し、「自衛軍」の保持を明記した。
自衛軍は自衛のためだけでなく、「国際社会の平和と安全」の確保や、「緊急事態における公の秩序を維持」するために活動できる。集団的自衛権は明記しないで、解釈で可能との立場をとっている。
運用次第で、自衛軍が米軍と一緒に地球の裏側まで出向き戦闘ができるようになる。専守防衛の転換であり、戦争放棄を国是としてきた戦後の歩みに照らしても疑問がある。
二点目は、前文や条文で「国民の責務」を強調し、国民の権利に制限を加えている点だ。
例えば、「常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」(十二条)としている。
現行憲法は「公共の福祉」の観点から、権利の乱用を戒めている。草案の「公益」や「公の秩序」は、それ以上にあいまいな概念だ。どうにでもできる解釈によって、国民の権利に枠がはめられる恐れがある。
憲法は本来、強い権力を持った政府が暴走しないよう、その手足を縛るものである。政府が憲法を盾に国民の権利を縛るようでは逆だ。
大枠では現行憲法の踏襲というオブラートに包みながら、肝心なところを変えようとしている。おいそれとのみ込めない草案である。国民が中身を厳しく吟味する番だ。
●<琉球新報>自民新憲法草案・国民的議論は熟したか/政治こそ憲法に従うべき
国際貢献などといった美名や掛け声の下で、いま日本の「国のかたち」は岐路に立たされようとしている。
11月の結党50周年に合わせ、作業を進めてきた自民党の「新憲法草案」がまとまった。現行の平和憲法の核心部分である9条を改正し、「自衛軍を保持する」と明記した。
9条2項の「戦力不保持」と「交戦権の否認」を削除し、自衛隊を戦争のできる軍隊として明確に位置付けたのだ。
衆院には既に改憲手続きを定める国民投票法案を審議する特別委員会が設置され、民主党も前原誠司代表が改憲の姿勢を鮮明にしている。戦後60年の節目に憲法は改正に向けて、階段を一歩駆け上ったことになる。
見えぬ歴史の反省
前文の冒頭でわざわざ自主憲法と訴えた理由は、連合国軍総司令部(GHQ)による「押し付け」ではないことを強調したいがためか。だが、その意識が勝ちすぎて拍子抜けするほど平板に流れ、格調の高さが消えた印象は否めない。
しかし、それ以上に気になるのは、歴史への反省や教訓といった要素が感じられない点である。平和を願う熱い気持ちが、まるで伝わってこないのだ。
現行憲法の前文については、翻訳調の悪文だといった批判があるが、戦争という悲惨な歴史の反省の上に立ち、新たな国造りへ向けた決意の嵩高さ、力強さは、自民草案とは比ぶべくもない。
自民の草案前文は「国民は国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し…」との表現で、愛国心と国防への決意を促している。当初の案と比べ、保守的な復古調の文言はさすがに消えているものの、国防に関するトーンや色彩を濃くにじませている。
焦点は9条である。自衛隊の存在を「自衛軍」と改めたほか、章立ての書き換えで、第2章を「戦争放棄」から「安全保障」へと転換した。
自衛軍については2項で「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛軍を保持する」とし、国会の承認その他の統制に服することや、国際貢献、さらに緊急事態への対応などが事細かく規定されている。
戦後の日本は、専守防衛を安全保障政策の根幹に据えてきた。しかし、それも草案では「日本の有事」の際だけでなく「国際社会の平和と安全」を目的に武力行使が認められる。
さらに「周辺事態」の際、米軍と一体化して軍事行動や、多国籍軍の一員として海外での武力紛争に参加する道までも開かれようとしている。
改憲論者は口を開けば、平和憲法と現実の乖離(かいり)を挙げて、時代に見合った新憲法の制定を主張する。
侵略放棄の誓い
なるほど、世界有数の装備を誇るまでになった自衛隊は、現行憲法の理念や規定とは、およそ相いれない。軍隊としての自衛隊をイラクなど外国へ派遣したくてもせいぜい特措法を制定して人道支援に当たるしかない。それだと国際貢献は不十分だというわけだ。
だが、憲法に抵触・逸脱する現実がなぜつくりだされたのか。その責任は誰が負うのか。それらをすべて不問に付しては、筋が通らない。
9条を核とする平和憲法あるがゆえに、戦後の日本は経済発展を遂げ先進国の仲間入りをした。アジア諸国からは、二度と侵略を仕掛けない、日本の固い誓いと受け止められたのは動かしがたい事実である。
現実乖離論では、国民に対しても説明責任を果たしたことにならない。
現実に擦り寄り、揚げ句に憲法の規定を変えようとする意図と働きは、政教分離の原則にも如実に表れている。
20条3項は「いかなる宗教的活動もしてはならない」と国や自治体の宗教的活動を禁じているのを、草案では「社会的儀礼の範囲内」に緩和されている。首相の靖国神社参拝を合憲化する狙いがあるのは明白だ。
憲法改正は本当に必要か。いまの国際社会の中で、日本に求められる役割や「国のかたち」はどうあるべきか、わたしたち一人一人が問い直さねばならない。憲法をめぐる国民的議論が必要だ。(10/30)
●<京都新聞>自民新憲法案 専守防衛捨ててどこへ
自民党が新憲法草案を決めた。立党50年を機に、初めて条文形式でまとめた改憲案だ。
「戦力不保持」を規定した第9条2項を削除して、「自衛軍の保持」を明記したのが最大の特徴である。
自衛隊の存在を憲法に「軍」として明記しただけでなく、従来の「専守防衛」から「普通の軍隊」に、との意向がにじむ。
ただ草案の文言からは将来の安全保障の在り方が不透明で、自民党の目指す国家像もよく分からない。最もはっきりさせねばならないことを、あいまいにしている。
憲法改正問題では公明党が「加憲」の立場で論議しているほか、民主党は来年に独自案をまとめる方針を明らかにしている。自民党の草案発表で今後、改憲論議が加速するとみられる。拙速を避け、国会や国民論議を盛り上げたい。
焦点となった9条の取り扱いでは、「戦争放棄」を定めた現行憲法の9条1項を維持するが、「戦力不保持」を記した2項を削除した。同時に国の平和と独立を確保するために首相を最高指揮権者とする「自衛軍の保持」を明記している。
草案の内容は、集団的自衛権の発動に道を開き、海外での武力行使を可能とする。
最近の日米同盟強化の動きを考えれば、米軍と一体化した共同軍事行動に巻き込まれる恐れもある。
専守防衛の原則を実質的に踏み越えれば、「自衛力」の中身も変わりかねない。これまで認められなかった戦力爆撃機や空母などを求める声が一段と強まると予想される。
当初、海外での武力行使の歯止めになるとした「安全保障基本法」や「国際貢献基本法」の構想を示さないまま9条改正をうたうのは拙速である。憲法の本文に盛り込まれるべき肝心な点が抜けている。
世界で例のない9条の「戦争放棄」の考え方は、先の大戦への深い反省に立って不戦の誓いを具体化したものだ。それだけに改正論議にあたっては、世論の動向を十分に見定める必要がある。
今春、参院憲法調査会がまとめた最終報告書は9条2項の改正で意見が賛否に分かれ両論併記とした。
一方、前文の記述をめぐっては、中曽根康弘元首相らの「保守派」と、他党の協力も求めようとする小泉純一郎首相らの「協調派」との考え方の差が大きかった。
草案では愛国心や国防の責務などについて中曽根氏の当初案を書き換えて控えめな表現にとどめたが、自民党内で意見が一致しないことは作業がまだ半ばの証左だ。まず党内論議を煮詰めることが肝要である。
新しい権利としては環境権、知る権利、プライバシー権、犯罪被害者の権利など5つを草案で規定した。権利規定が弱く、実効性があがるかどうかの疑問が残る。
私見
読み終えて靖国と改憲が繋がって見えてしまう。 戦後日本が掲げた理想・自らを律した崇高な理念は捨て、国民には「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を課して、何が何でも軍隊を持ちたい、これが、新憲法草案のすべてだった。さらに論争を巻き起こしている小泉純一郎首相の靖国神社参拝を、社会的儀礼にし、靖国の示す大東亜戦争肯定を受け入れる素地を作ろうというのだろう、と勘ぐってしまう。
その後の社説から
●沖縄タイムス社説(2006年1月4日朝刊) [日米同盟と憲法]9条の改定には反対だ
米軍と自衛隊の一体化
ブッシュ米政権は、二〇〇一年九月の「四年ごとの国防戦略見直し」(QDR)以来、米軍再編を世界的規模で進めている。
陸軍、海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊の五つの軍隊のうち、沿岸警備隊を除く四軍で行われている。
四軍は担当地域・分野によって、北方軍(北米)、中央軍(中東)、欧州軍(欧州・アフリカ)、太平洋軍(アジア・太平洋)、南方軍(中南米)、特殊作戦軍(特殊作戦)、統合軍(北大西洋)、戦略軍(核兵器と宇宙軍)、輸送軍(輸送)―の九つの組織に構成される。なかでも欧州、中東、東アジアが再編の重点地域だ。
在日米軍は、太平洋軍に含まれ再編重点地域の東アジアの中核に位置する。そして、普天間飛行場の移設問題を抱える沖縄は、海外では最大規模の一万八千人の海兵隊が駐留し、在日米軍再編の焦点でもある。
米国は、この再編によって海外基地の約三分の一を閉鎖し、海外駐留の約七万人の兵士とその家族約十万人を本国へ帰国させる計画だ。
再編理由をひと言で言うと、米軍を冷戦時代の「駐留軍」からより効率的で機動性に富んだ「遠征軍」に仕立て上げ、日本の自衛隊と一体化させる動きと言っていい。
今後、海外に展開するすべての米軍に先端軍事技術を駆使した遠征的機能を持たせ、有事即応化していく戦略だ。
背景には、旧ソ連崩壊による冷戦終結に伴い、地域紛争が多発し、9・11米中枢同時テロをはじめテロ攻撃や大量破壊兵器の拡散、核の「闇市場」などがグローバル化したことがある。
こうした情勢を踏まえ昨年十月末、日米安保協議委員会(2プラス2)で合意された在日米軍再編の中間報告は、「日米同盟の強化」を高らかにうたい上げた。
両政府は、米軍と自衛隊の「役割、任務、能力」を分担し、日米同盟を世界規模に拡大、強化することを確認し合ったのが中間報告の意味するところである。
本音は集団的自衛権行使
日本は、既にテロ特措法やイラク特措法、PKO協力法などで自衛隊を海外に派遣している。
今後は、世界規模で展開される米軍の活動を自衛隊が「切れ目なく支援・補完する」(合意文書)ため、米軍とともに作戦行動するという新たなステージに入る。
日米安保条約は、本来「日本防衛と極東の安全」を目的としている。沖縄に全国の75%が集中している米軍専用施設や自衛隊の支援・補完活動もそれを前提にしているはずである。
だが、今回の日米合意はこの安保条約の枠組みを超え、実質的に条約改定に匹敵するほどの意味を持つ。合意文書の中身は、自衛隊がますます米国の世界戦略に組み込まれていくことを表明したものにほかならない。
こうした「世界の中の日米同盟」の名の下で、米軍と自衛隊のパートナーシップはいよいよ憲法九条と両立できなくなったと言え、改憲の動きが強まっている。
米国は、日本が集団的自衛権の行使を認め、自衛隊を正式な軍隊に昇格させ、事実上の陸軍、海軍、空軍に改編してほしいのが本音であろう。少なくとも、それを期待しているはずだ。
今年は憲法公布から六十年。日本国憲法も「還暦」を迎える。
昨年、衆参両院の憲法調査会が最終報告を出し、自民党が新憲法草案を、民主党も憲法提言をそれぞれ発表した。集団的自衛権行使をめぐる論議は、今年ヤマ場を迎える。
深まる近隣諸国との溝
しかし、それに伴って「靖国問題」や「歴史認識問題」などからくる隣国・中国や韓国との溝がさらに深まるのは避けられまい。
ブッシュ政権は、中国の軍事的台頭を東アジアの「脅威」に挙げ、新たな日米同盟の課題としている。
自衛隊の海外派遣をめぐっても、時限立法の特措法ではなく、恒久立法の新たな法整備で日米同盟への貢献を求めてくるに違いない。
しかし、憲法九条の改定は、自衛隊を「戦争のできる軍隊」につくり変えることにほかならず、アジアの近隣諸国が日本への疑念を一層強めるのは明らかである。
日本を「戦争のできる国」にしてはならない。そのためにも「九条の改定」には反対である。
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