徳願寺(とくがんじ)


 【由来・いわれ】
 埼玉県鴻巣にある勝願寺の末寺であったが、徳川家康の帰依により、慶長十五年(1610年)に、徳川の「徳」と勝願寺の「願」の二文字をとって徳願寺と名が付けられた。
 明治六年(1873年)には、行徳小学校が当寺を仮校舎に開校している。

【歳時・みどころ】
 本尊阿弥陀如来像は、源頼朝の妻北条政子が仏師運慶に命じて彫らせたものといわれている。
 宮本武蔵の落款のある書と八方にらみの達磨(だるま)の絵、円山応挙の幽霊の絵などの寺宝は、毎年十一月十六日のお十夜の日に一般公開される。
 境内には、市川市指定文化財の山門、鐘楼、経蔵の他に身代観音堂、宮本武蔵の供養塔などがある。
 また、四季折々の草木を楽しむことができ、お十夜、大晦日(除夜の鐘)には大勢の人々で賑わう。

行徳浦安三十三カ所観音札所めぐり 第一番

この【由来・いわれ】【歳時・みどころ】はこの欄上部の高札を左に拡大しそれを書き写したものです。以下の寺社も同じ。


・2010年正月、安永4年(1775年)建立された山門の改修が終わり、新たにお堂〔観音堂?〕が造られた。経蔵は現在改修工事中。(2010年正月更新)
徳願寺のHP
  海巌山 徳願寺  ・門前の案内板(写真四段目右端)を写す・    
 徳願寺はもと普光院とよぶ草庵で浄土宗勝願寺の末寺であった。慶長十五年(1610)徳川家康の帰依により、新たに堂宇が建立され、徳川の徳と勝願寺の願をとって、改めて『徳願寺』の名がつけられ、円誉不残上人を開山に開創されたものである。
 本尊阿弥陀如来像は、かつて源頼朝の室政子が、仏師運慶に命じてちょうこくさせたものといわれ、徳川家康が二代将軍秀忠夫人のため、鎌倉から江戸城に遷したが、夫人の逝去後、当山二世忠残上人が請けて本尊としたものである。そして、三代将軍家光からは本尊供養料として、慶安元年(1648)朱印十石が与えられた。本堂は安政三年(1856)火災により焼失、大正五年(1916)に再建されたが、山門と鐘楼は共に安政四年(1775)の建築で、本寺最古の建造物である。山門に安置する二王像等の彫刻物は、明治維新のさい葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺から移されたものである。他に輪堂式経蔵や身代観音堂があり、本堂には湛慶作と伝える閻魔大王像が安置されている。
 また、本寺には文化四年(1807)江戸深川の永代橋墜落による溺死者の供養塔や、宮本武蔵供養のための石地蔵をはじめ、武蔵筆と伝える書画、円山応挙筆と伝える幽霊の絵などが寺宝として保管されている。
 明治四年(1871)十二月、印旛県庁が一時本寺に置かれたことがあり、更に明治六年(1873)行徳小学校が、本寺を仮校舎として誕生している。 (昭和五十四年三月 市川市教育委員会) 

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