常運寺(じょううんじ)
(上の写真の碑を写す) 抑当姫塚ハ開基日信上人 天正八年七月北條家滅亡ニ際シ 氏直ノ女勝姫ヲ預リ逃レテ当所ニ 来リ主家ノ菩提ヲ弔フ姫十八歳ノ秋 故アリテ自刃ス然レトモ世間ニ憚リテ 建塔ノ事ナク上人密ニ弔フト雖以来 幾百星霜姫ノ霊ヲ留ムヘキ何物モナシ 幸ニモ比度野地氏ノ篤信ニ因リ姫ノ 霊ヲ呼ヒ北條家一門ノ幽魂ヲ祀リテ 題目山鎮護ノ神ト致ス不思議ノ病 痛ニ悩ム者詣シテ祈念シ除病延命 顕益ヲ得ヘント爾云 昭和八年十月 |
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『由来・いわれ』 小田原北条氏の家臣野地氏、常運院日信が、中山法華経寺に金銅の大仏を奉納した代わりに本尊を授与され、元和二年(1616)に開いた。 『歳時・みどころ』 本尊 読経日蓮大菩薩像(枕かえしの祖師) 中山法華経寺三代管主の日祐上人の作で、「亡くなったらお墓のところに小屋を造ってお祀りしてくれ」と言い残して亡くなった。 その後お参りに行くと、この像から南無妙法蓮華経の声が聞こえたといわれている。 御施餓鬼会 八月二十三日 御 会 式 十一月十二日 徳願寺向かい、山門前に「小児虫封じ呪処」と石柱のある。次はもう一つの言い伝え。 小田原の北条氏が滅びたとき、野地久右衛門という武士が北条家の姫を守って行徳へ落ちのびて、今の常運寺のある場所に住みき、頭を丸めて、法華経寺へ参詣することを日課としていたが、ある日のこと、法華経寺のお祖師様の像を拝んでいると「自分の像をお前の家に連れて帰って、堂を建ててほしい」という。そこで、ここに堂を建て、常運寺と名付けたという。その後 向かいの徳願寺の住職は、本尊が安置してある北側を枕にして寝る習慣だったが、ある朝、目覚めると何故か頭を常運寺の方に向けて寝ている。毎晩のようにこのことが起こったので、いつからか常運寺のお祖師様を「枕返しのお祖師様」と呼ぶようになった。 そして、久右衛門が育てた姫は、成人ののち何者かによって常運寺の裏手で殺され不幸な最期をとげた。その後、姫の怨霊のたたりか、その辺りの田を耕した人の家に病人や死人が出たので「死にっ田」と恐れられ荒れ田になった。姫の霊をしずめるために祀った勝姫龍神の祠堂が墓地の奥にある。 |