・舞姫・口語訳・ HPトップへ 構成(このべージのトップ) @ A B C D E F G H I J 原文・語注

「舞姫」
【口語訳】原文(文語文)が読みづらい人のための現代語訳。

 口語訳を読んだ後ぜひ原文で読んでください。調べと薫りが違います。
 附・原文は「青空文庫作成ファイル」をコピーしたものです。
  こちらです。語句の注が付いています。
  

構成
・左記の@〜Jと上欄の@〜Jが対応しています。
    番号をクリックするとそこの本文に飛びます。

 @… 一、 帰国の途中、一人船に残り、愁いに沈む
    二、 回想記 生い立ちから恋愛の悲劇的結末まで
 A…   起 @生い立ち
 B…     Aドイツ留学の三年間
 C…   承 @エリスとの出会い
 D…     Aエリスとの恋愛の深まり 免官と母の死
 E…     Bエリスとの同棲 通信員の生活
 F…   転 @エリスの懐妊、相沢との再会
 G…      Aロシア行き
 H…   結 @帰国の承諾、エリスへの罪悪感
 I…     Aエリス裏切りを知り発狂
 J… 三、 回想記を終えての感慨






留学時代の鴎外
資料:鴎外記念本郷図書館
   注・森鴎外の「鴎」のへんは、正確には「区」ではなく「區」です



 @石炭は早くも積みおわったようす。二等船室のテーブルの辺りは人けもなく静かで、白熱電灯の灯りが白々と明るく輝いているのもかえって虚しく感じられる。いつも晩にはここに集まってくるトランプ仲間も、今夜ばかりは陸のホテルに宿を取っていて、船に残っているのは私一人なのだった。
 いまから五年前のことになるが、日頃の念願がかなって官から渡欧のことをおおせつけられ、このサイゴンの港まで来たころは、見るもの聞くもの、すべてが新鮮な印象であった。その時、興にまかせて書き散らした旅行記は毎日どれほどの多さであったろう。どれも当時の新聞に載せられて世間の人々にもてはやされたものだが、今になって思えば子供めいた考え、身のほどをわきまえない言いたい放題、でなければありきたりの動植物や鉱物や、はては風俗習慣などまでもを珍しそうに書き記していた。それらを、分別ある人はいかに見たであろうか。
 それに比べ、この度の帰国の途上に日記をつけようと買ったノートがまだ白紙のままなのは、ドイツで学問をしていた間に、冷淡で虚無的な性質を身につけたからであろうか。いや、これには別にわけがあるのだ。
 実際、東に向かって戻る今の私は、かつて西に向かって船出した昔の私ではない。学問だけはいまだ満ち足りないところも多いけれども、世間のつらさや悲しさも知った。人の心の当てにならないのは言うまでもなく、この自分の心までがいかに変わりやすいものであるかもよく思い知ることが出来た。昨日良しとした物の見方・考え方を今日は否定していると言うような、私自身の時々の変容を、紙に写してだれに見せようか。これがすなわち日記の書けない由来なのか。いやいや、これには別にわけがある。
 ああ、ブリンジイシイの港を出航してから、すでに二十日余りを過ごした。普通なら初対面の旅客に対しても親しく交際し、たがいに旅の暇な辛さをなぐさめあうのが航海の通例であるのに、身体の不調のせいにして船室のうちに閉じ籠もってばかりいて、同行の人たちにも口を利くことが少いわけは、人に知られぬ苦しい思いに心を悩ませていたからだ。この苦しい思いは、はじめは一ひらの雲のように心をかすめていて、スイスの美しい山なみも目に映ることなく、ローマの古蹟にも心をとどめさせないのみか、時を経るとやがてこの世が厭になり、さらにわが身をもはかなんで、はらわたがねじり切れるほどの痛みを感じ、今は心の奥に凝り固まって、一点の影とばかりになったものの、それでも本を読む度に、あるいは物見るごとに、鏡に映る影法師かあるいは声に応じるこだまのように、限りなく昔を懐かしむ思いを呼び起こして、幾度となく私の心を苦しめる。
 ああ、どうしたらこの苦しい思いを消し去ることができようか。これがほかの嘆きであったなら、詩や歌に詠んだあとはきっと気持ちもすがすがしくなるであろう。こればかりはあまりに深く私の心に刻み込まれたのでそれもなるまいと思うけれども、今夜はあたりに人もいない、ボーイが来て明かりを消していくまでにはまだ時間もありそうなので、その概略を文章につづってみることにしよう。

 A私は幼いころから厳しい家庭教育を受けたかいがあって、父をはやくに亡くしたけれども学問が後退してしまうこともなく、旧藩の学校にいたころも、東京に出て大学予備門に通っていたころも、大学法学部に入った後も、太田豊太郎という名前はいつも同学年の首席に書き記されていたので、一人っ子の私を頼りとして暮らす母は心安らいでいたであろう。
 十九歳で大学を早くも卒業し、学士の称号を受けたとき、大学創立以来いまだかつてない名誉であると人にも言われ、そして官庁に奉職して、故郷の母を首都東京に呼び迎え、楽しい年月を送ること三年ばかり、上官の受けも格別であったので、ついには「外遊して課の事務を調査せよ。」との命令をうけ、わが名を上げるのもわが家を興すのも今こそと心が勇みたって、五十歳を越えた母に別れるのもそれほど悲しいとも思わず、はるばると故国を離れてベルリンの都までやってきた。

 B私は、漠然とした名を挙げたいという思いと、自己を抑制して努力し勉強する力とをもって、たちまちこのヨーロッパの新興の大都市の中央に立った。
 わが目を射るのはなんという輝き、心を惑わそうとするのはなんという美しさ。「菩提樹の下」と訳してしまうと、ひっそり静かな所のように思われるが、このまっすぐな髪のように延びている「ウンテル・デン・リンデン」の大通りに来て、左右の石畳の歩道を歩む幾組もの男女の群れをご覧なさい。まだ皇帝ヴィルヘルム一世が街路に臨む宮殿の窓から街をご覧になっていたころのことで、胸を張り、肩をそびやかした士官が色とりどりに飾り立てた礼装をしている姿や、麗しい娘がパリ風の化粧をしているさまは、どれもこれも驚きの目をみはらないものはない。更には、車道のアスファルトの上を音もさせずに走るさまざまの馬車、雲にそびえる高楼が少しとぎれた処には、晴れた空に夕立のような音を響かせてあふれおちる噴水の水、遠く望めばブランデンブルク門をへだてて緑の木々が枝を交わしているなかから空に浮かび出た凱旋塔の守護女神像など、おびただしい景観が目の前にひしめき集まっているのだから、初めてこの地を訪れた者が見るもの聞くものに次々と心奪われてしまうのももっともなこと。
 しかし、私の胸にはたとえいかなる場所に旅しても害ある余計な美観には心を動かされまいとの堅い決意があり、いつも迫ってくるこれら華やかな外からの誘惑を絶ちきっていた。

 私が呼び鈴を鳴らして案内を求め、国からの紹介状を出して日本から来たとの意を告げるとプロシア国の役人は、みな快く迎えてくれ、「大使館の手続きさえ無事に終わったならば、何なりと教えも伝えもしましょう。」と約束した。うれしかったのは、私が故国においてすでにドイツ語もフランス語も学んでいたことだ。彼らははじめて私に会ったとき、どこでいつの間にこれほどに習得したのかと尋ねないことはなかったのである。
 さて、公務の暇がある度に、前もって正式の許可も得ていたので、現地の大学に入って政治学を修得しようと、学籍簿に名を載せる手続きを取った。
 ひと月ふた月と過ごすうちに、公式の打ち合わせも済んで、取り調べもだんだんはかどっていったので、急ぎの件は報告書を作って本国に送り、急ぎでもないその他のものは手元に資料を写しとどめるというようにして、ついにはそのノートが何冊になったことだろう。大学の方では、自分の幼稚な考えで予想していたような政治家を養成する学科などのあろうはずもなく、あれかこれかと思い惑いながらも、二・三の法学者の講座に出ることを決めて、授業料を納め、聴講に出かけたのだった。

 こうして三年ほどは夢のように過ぎていったが、来るべきときが来ればどんなに隠しても隠しきれないものは人の好みというものなのだろう。
 私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童だなどとほめるのがうれしさに怠けることなく学問に精を出したころより、上官が「良い働き手を得た」と激励する喜ばしさに怠りなく勤務を続けてきた時まで、ただひたすら受動的、機械的人物になってみずから悟らなかった。しかし、いま二十五歳になって、すでに久しくこちらの自由な大学の風潮に感化されたせいか、心の中がなんとなく穏やかでなく、奥深くに潜んでいた真実の自分が、次第に表にあらわれて、昨日までの偽りの自己を攻撃するかのようだった。
 私は自分がいまの世の中に時めく政治家になるには適当でなく、また立派に法律書を暗唱して判決を下す法律家になるにもふさわしくないことを悟ったと思った。
 私はひそかに考えた。母は私を生きた辞書にしようとし、上官は私を生きた法律にしようとしたのではないか。生き字引であることはそれでも可能であるが、歩く法律となるのはとうてい我慢がならない。今まではごく些末な問題にもきわめて丁寧に返答してきた私がこのころから上司に寄せた手紙には法律の細部にとらわれるべきでないことをあれこれ言い立て、「ひとたび法の精神さえ学びえたならば、あれやこれやの細かなことは一気に解決できるものだ。」など堂々と言い立てたこともあった。また大学では法科の講義はおろそかにして、人文・歴史に心を寄せて、そろそろ面白みも分かる域に達してきた。
 上官はもともと意のままに使うことのできる機械を作ろうとしたのだろう。独自の考えを抱いて、人並みでない偉そうな顔つきをした男をどうしてこころよく思うはずがあるだろうか。あやうかったのは、そのころの私の地位であった。しかしながら、こればかりではまだ私の地位をくつがえすには足りなかったのだが、日ごろベルリンの留学生のうちで、ある勢力あるグループと私との間におもしろくない関係があり、その人たちは私を嫉妬し疑い、またついに私にぬれぎぬを着せて陥れるに至った。しかし、これとても理由なくてのことではなかった。
 その人たちは私が一緒にビールのジョッキを取り上げず、玉突きのキューも取らないのを、頑固で一途な心と自制の力のせいにして、一方ではあざけり、又一方では嫉妬しもしただろう。しかし、これは私を知らないからだった。
 ああ、この理由は、自分自身さえ気づかなかったものを、どうして他人に知られるはずがあったろうか。私の心はあの合歓という木の葉に似て、物が触れれば縮んで避けようとする処女に似ていた。私が幼いころから年長者の教えを守って、学問の道をたどった時も、仕官の道を歩んできた時も、どれも勇気があって精進してきたのではない。継続努力の勉強の力と見えたのも、すべて自分を欺き、人までも欺いたのであり、ただ人がたどらせた道を一筋にたどっただけなのだ。他の方面に心が乱れなかったのは、ほかのものを捨ててかえりみないほどの気概があったからではなく、ただもうほかのものを恐れて自分の手足を自分でしばっていただけなのだ。故国を出る前も、自分が前途有望な人物であることを疑わず、また自分がいかなる困難にも耐えられる意志の持ち主だと深く信じていた。ああ、それもつかのまのことだったのだ。船が横浜を離れるまでは、あっぱれ豪傑よと思っていた自分が、こらえきれない涙に思わずハンカチを濡らしたのをわれながら不思議なことと思ったが、これこそがまさに自分の本性だったのだ。この心は生まれつきなのであろうか、それとも、父を早く失って母の手に育てられたことによって生じたのだろうか。
 彼らがあざけるのはもとよりしかたがない。しかし、嫉妬するのは愚かなことではないか。この弱く、かわいそうな心を。
 赤く白く顔を塗って、きらびやかな色のドレスを身にまとい、酒場に座して客を呼ぶ女たちを見ても、そこに行って共にふざける勇気なく、また山高帽をかぶり、眼鏡で鼻を挟むようにして、プロシアでは貴族まがいの鼻音でしゃべる洒落者を見かけても、これと遊び回る勇気もない。これらの勇気がないので、あの活発な同郷人たちと交際しようもない。この交際下手のために、彼らは単に私をあざけり、または嫉妬するにとどまらず、さらには私をうたがったり、ねたんだりするに至った。これこそ、私が無実の罪を負って、わずかの間にはかりしれない苦難を味わい尽くすきっかけとなったものなのだった。

 Cある日の夕暮れのこと、私は動物公園を散歩して、ウンテル・デン・リンデンを通り過ぎ、モンビシュウ通りの自分の下宿に帰ろうとして、クロステル小路の古い教会の前まで来ていた。
 大都会の灯火の海を渡って、このクロステルの狭く薄暗い横丁に入ると、階上の手すりに干したシーツやシャツなども取り込まずにいる人家や、頬ひげを伸ばしたユダヤ教徒の年寄りが前に佇んでいる居酒屋、また一つの階段が屋上まで通じ、もう一つの階段が穴蔵住まいの鍛冶屋に通じている貸家などがある。それらの建物に向かい合って凹字の形に引っ込んで建っている三百年前の遺跡と思えるこの古寺を眺めるたびに、我を忘れてうっとりと立ち尽くしたことはこれまで幾度あったろう。
 丁度この場所を通り過ぎようとするとき、教会の閉ざされた門扉にもたれたまま、声をおさえて泣いている一人の少女を見た。年のころは十六七であろうか。頭にかぶったスカーフからもれ出ている髪は淡い金色で、着ている衣服は垢じみたり汚れている感じもない。私の足音に驚かされてふりかえった顔は・・・私には詩人の筆力もないのでここに写すことができない。この青く清らかで、もの問いたげに悲しみを帯び、なかば涙の露を宿した長いまつげにおおわれたその眼は、どうしてただ一度こちらを見たばかりで、この用心深い私の心の底までつきとおしたのだろうか。
 彼女は思いがけない深い悲しみに遭って、あとさきの事情を顧みる余裕もなく、ここに立って泣いているのだろうか。いつもの私の臆病な心も憐れみの情がうち勝って、私はふとそばに寄った。
「どうして泣いていらっしゃるのですか。こちらにわずらわしく面倒な知り合いもない他国の者のほうが、時によってはかえってお力を貸しやすいかもしれません。」
 思わず言葉をかけたが、われながら自分の大胆なのにあきれてしまった。
 彼女は驚いてこの黄色人の顔を見つめていたが、私のまじめな気持ちが顔色にも表れていたのであろう。
「あなたは良い人だと思います。あの人のようにむごくはないでしょう。また私の母のようにも。」
 しばらくとだえていた涙は、また泉のようにあふれて愛らしい頬を流れ落ちた。
「私をお救いくださいませ、私が恥しらずの人間になってしまうのを。母は私があの人の言葉に従わないからといって、私をぶちました。父は死んだのです。明日はお葬式を出さなければならないのに、家には一銭のたくわえもないのです。」
 あとはすすり泣きの声ばかり。私の目はこのうつむいた少女のふるえるうなじにばかり注がれていた。
「あなたのお家までお送りしましょうから、まず気持ちを落ち着けなさい。泣く声を人に聞かせるものではありません。ここは往来なのですから。」
 彼女は話をするうちに、知らず知らず私の肩に身をよせていたが、この時ふと頭をあげ、はじめて私を見たかのように、恥じて私のかたわらを飛びのいた。
 人に見られるのを避けて足早に行く少女のあとについて教会の筋向かいの大きな戸を入ると、ひび割れた石の階段がある。これを昇って四階目にくると、腰を曲げてくぐれるほどの戸がある。少女は、錆びた針金の先をねじ曲げて作った把手に手をかけて強く引いた。中でしわがれた老人の声がして「誰だい。」と聞く。
「エリスが帰りました。」と答えるほどもなく、戸を乱暴に開いたのは、半ば白髪の、人相は悪くないが貧苦のあとを眉間の深い皺に刻み込んでいる老女で、古ぼけたネルの上着に、汚れた上ばきを履いていた。エリスが私に会釈して中に入るのを待ちかねたように、戸を激しく閉てきった。
 私はしばらく呆然として立っていたが、ふとランプの光に透かして戸を見ると、エルンスト・ワイゲルトとペンキで書いた表札の下に仕立物師と注記してある。これが亡くなったという少女の父親の名前なのだろう。戸の内では言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって、戸が再び開いた。先ほどの老婦がまた現れ、今度は丁寧に自分の非礼のふるまいを詫び、私を中へ招き入れた。中はすぐに台所で、右手の低い窓には真っ白に洗った麻布を掛けてある。左手には粗末に積み上げたレンガのかまどがある。正面の一室は戸が半分開いているが、中には白布をおおった寝台がある。横たわっているのは亡くなった人なのであろう。
 かまどの横の戸を開いて私を案内した。この場所はいわゆる屋根裏部屋の街路に面した一室なので、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がっている梁を壁紙で張ってある下の、立てば頭がつかえそうなところに寝床がある。中央にある机には美しい敷物を掛けて、上には書物一、二冊とアルバムを並べ、陶器の花瓶にはここに似合わしくない高価な花束を活けている。そのそばに少女はきまりわるげに立っていた。
 彼女はたいへん美しい。乳白色の顔は灯火に映じてかすかに赤みがさしていた。手足がか細くすらりとしているのは、貧しい家の女性らしくない。老婆が部屋を出た後、少女は少し下町風の訛りのある言葉で語った。
「どうか許してください。あなたをここまでご案内した心ないふるまいを。あなたはきっと良い方なのでしょう。私をまさかお憎みにはならないでしょう。父の葬儀は明日に迫っているというのに、頼りに思っていたシャウムベルヒが、・・そう、あなたはご存じないでしょう。彼はヴィクトリア座の支配人です。彼に雇われてから、早くも二年になるので、ことなく私たちを助けてくれるものと思っていたのに、人の苦しさにつけこんで、身勝手な言いがかりをつけてくるとは。・・どうか、私をお救いください。お金は少ない給金の中から振り分けてお返し致します。たとえこの私は食べなくても。それもできないならば、母の言葉に従うしかありません……。」 
 彼女は涙ぐんで身をふるわせた。その見上げた目には、人にいやとは言わせないなまめかしい愛らしさがあった。この目の働きは意識してするのか、それとも無意識のだろうか。
 ポケットには二、三マルクの銀貨があったが、それで用が足りるはずもないので、私は懐中時計をはずして机の上に置いた。
「これでこの一時の急場をしのいでください。質屋の使いがモンビシュウ街三番地の太田まで訪ねてきたときには、代金を支払うから。」
 少女は驚き感銘を受けた様子で、私が別れのために差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲にそそいだ。

 Dああ、何という不運だったろう。この恩に感謝しようとして自分から私の下宿を訪ねてきた少女は、ショーペンハウアーやシラーの著書に囲まれて一日中座って読書する私の窓辺に、一輪の美しい花を咲かせたのだった。この時からはじめて、私と少女との交際は次第に度重なっていき、在留の日本人たちにまで知られることになったので、彼らは早合点にも私が踊り子たちの間に色を漁り歩くと考えた。私たち二人の間には、まだ幼く無邪気な喜びだけがあったというのに。
 ここにその名前を出すのははばかられるが、同国人の中に事を荒立てて喜ぶ者があり、私が足しげく劇場に出入りして女優と交際するということを上官まで報告した。ただでさえ私の学問がずいぶん違った道に行くのを苦々しく思っていた上官は、遂にその一件を公使館に伝え、私を罷免・解職してしまった。公使がこの命令を伝えるとき、私に向かって言うには、「貴方がもしすぐに帰国するならば旅費は支給しようが、もしまだ当地に留まるのであれば公費の助成を仰ぐことは出来ない。」ということであった。私は一週間の猶予を願って、あれこれ思い悩むうちに、生涯でもっとも悲痛を覚えさせた二通の書状に接した。この二通はほとんど同時に出したものだが、一通は母の自筆、もう一通は親戚の者が母の死を、私がこのうえなく慕う母の死を知らせてきた手紙であった。私は母の手紙の文言をここに繰り返し記すことができない。涙がこみ上げてきて筆の運びを妨げるからだ。
 私とエリスとの交際は、この時までははたから見るより潔白だった。彼女は父親が貧しいために十分な教育を受けず、十五才の時舞踏の教師の募集に応じて、この卑しい仕事を教えられ、レッスンが終了したあとはヴィクトリア座に出て、今では場中第二位の地位を占めていた。しかし、作家ハックレンデルが現代の奴隷といったごとく、はかないのは踊り子の身の上であった。少ない給金で束縛され、昼は稽古、夜は舞台と休みなく酷使され、劇場の化粧部屋に入れば白粉もつけ、華美な衣装もまとうけれども、場外に出れば、自分ひとりの衣食も足りないほどであるから、まして親兄弟を養う場合などその苦労はどれほどのことであろう。であるから、彼女たちの仲間で、賎しいかぎりの仕事に堕ちない者は少なくないということだ。エリスがこれを免れてきたのは、おとなしい性質と、気強く何物にも屈しない父親の保護によっていたのだ。彼女は幼時から本を読むことはそれなりに好きな方であったが、手に入るのは品のないコルポルタージュと呼ばれる貸本屋の小説ばかりだったが、私と知り合ったころから、私の貸し与える本を読むことを覚えて、次第にその面白みを知り、言葉の訛りも改め、私に宛てた手紙にもほどなく誤字が少なくなった。そうであるので、私たち二人の間にはまず師弟の交際が生まれたのだった。
 私の突然の免職を聞いたとき、彼女は真っ青になった。彼女のことが関係していたことは隠したが、彼女は私に向かい、母親にはこのことを秘密にしていてほしいと言った。これは、私が留学費用を失ったことを母親が知って私を疎かにするを恐れたからだった。
 ああ、ここにくわしく書く必要もないことだが、私の彼女を愛する気持ちが急に強くなって、とうとう離れられない仲となったのはこの時であった。一身の大事を前にして、まことに生き残るか滅びるかという重大な瀬戸際であるのに、このような行いがあったのを不審に思い、また非難する人もあろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて出合ったときから浅くはなかったうえに、いま私の不運を憐れみ、また別離の悲しみに寂しくうつむき沈んだ顔に、髪の毛がほどけて垂れかかっている、その美しい、いじらしい姿は、悲痛の極に平常心を失った私の脳髄を貫いて、心を奪われてうっとりする間にここに至ったのをどうしようもなかった。

 E公使に約束した日限も近づき、私の運命の時は迫った。このまま国に帰れば、学成らずして汚名を負ったこの身が再び浮かぶことはあるまい。しかし、ここに滞留するには学資を得る手段がなかった。
 この時私を助けたのは、いま私とともに帰国の途に付いている者の一人、相沢謙吉である。彼はその当時東京にいて、すでに天方伯爵の秘書官であったが、私の免官の記事が官報に載ったのを見て、ある新聞の編集長を説いて、私を社の通信員となし、ベルリンに留まって政治・学芸の記事などを報道させることとしたのだった。
 社の報酬は言うに足りない額だったが、下宿を替え、昼食をとるレストランをも変えたなら、細々ながら生活はしていかれるだろう。あれこれ思案するうちに、誠意をあらわして私に助けてくれたのはエリスだった。彼女はどのようにして母親を説得したのだろうか、私は彼ら親子の家に身を寄せることとなり、エリスと私とはいつからとなく、わずかな収入を合わせて、苦しい中にも楽しい月日を過ごした。
 朝食のコーヒーをすませると、彼女は稽古に行き、そうでない日は家にいて、私はキヨオニヒ街の間口が狭く奥行きの長い新聞閲覧所に出掛け、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料を集める。天井の窓から採光を行っている部屋で、定職のない若者や、多くもない金を人に貸して自分は遊び暮らしている老人、取引の合間を盗んで憩いを求める商人などと隣り合って、冷たい石のテーブルの上で、せわしなく筆を走らせ、給仕の少女が運んでくる一杯のコーヒーが冷めるのもかまわず、細長い板切れに挟んだ新聞を何種類も掛け連ねた脇の壁にしきりに往来する日本人を、知らない人は何と見たことだろう。また、一時近くにもなると、稽古に行った日には帰り道に寄って、私と一緒に店を出る、この格別に軽やかな、まるで掌の上で舞うことさえできそうな少女を、不思議がって見送る人もあったであろう。
 学問は荒れ衰えてしまった。屋根裏部屋の小さな灯火がかすかに燃え、エリスが劇場から帰って、椅子に腰かけ縫い物などをするそばの机で、私は新聞の原稿を書いた。むかし、法令の条目の枯れ葉を紙の上に掻き寄せていたのとはちがい、今はいきいきと活動している政界の動静や、文芸・美術に関連した新現象の批評など、いろいろと結びあわせ、力の及ぶかぎり、ビョルネよりはむしろハイネを学んで構想を立て、さまざまの文章を記した中でも、皇帝ヴィルヘルム一世に続いてフレデリック三世の崩御があり、新帝の即位、ビスマルク侯爵の進退はどうなるかなどのことについては、とくに詳細な報告をしたのだった。であるから、この頃からは思っていたよりも忙しく、多くもない蔵書をひもといて以前の勉強を進めることも難しく、大学の学籍はまだ削られないものの、授業料を納めることも困難なので、たった一つにした講義でさえ、聴講に出かけることはまれであった。
 学問は荒れ衰えてしまった。しかし、私は別の意味で一種の見識を深めた。それは何かといえば、いったい民間の学問というものが広まっいてるのは、欧州諸国の中でもドイツにまさるものはあるまい。何百種という新聞雑誌に散見する議論には、大層高尚なものも多いのだが、私は通信員となった日から、かつて大学に足しげく通っていたころに養った見識によって、読んではまた読み、写してはまた写すうちに、今まで一筋の道だけを走っていた知識は、おのずから総合的になって、同郷の留学生などの大半が夢にも知らぬ境地に到達した。彼らの仲間には、ドイツの新聞の社説すら好くは読めない者がいるというのにだ。

 F明治二十一年の冬がきた。表通りの歩道では凍結にそなえてすべりどめの砂を蒔いたり、スコップで雪掻きもするが、クロステル通りのあたりはでこぼこしたところは見えるけれど、表面ばかりは一様に凍って、朝、戸を開くと飢えて凍えた雀が落ちて死んでいるのも哀れである。部屋を暖め、炉に火を焚きつけても、石の壁を貫き、衣服の中綿を通す北ヨーロッパの寒気はなかなかに耐え難かった。エリスは二三日前の夜、舞台で倒れたといって、人に助けられて帰ってきたが、それ以来気分がすぐれないというので舞台を休み、食事のたびに吐くのを妊娠しての悪阻(つわり)であろうと初めて気づいたのは母親であった。ああ、そうでなくてさえ心細いのはわが身の行く末であるのに、もし妊娠が本当であったらどうしたらよかろう。
 今朝は日曜なので家にいるが、心は楽しくない。エリスはまだ横になるほどではないが、小さな鉄製のストーブの近くに椅子を近づけて言葉少ない。この時、戸口に人の声がして、まもなく台所にいたエリスの母が郵便の手紙を持って来て私に渡した。見ると見覚えのある相沢の筆跡であるが、郵便切手はプロシアのものであり、消印にはベルリンとあった。不審に思いながら手紙を開いて読んでみると、
「急のことであらかじめ知らせる方法もなかったが、昨夜こちらにお着きになった天方大臣に付き従って自分もやってきた。伯爵が君に会いたいとのおっしゃるので、すぐ来てくれ。君の名誉を回復するのもこの機会にあるはずだ。心ばかりが急がれて用件だけを記す。」とあった。
 読み終わって茫然とした顔つきを見て、エリスが言う。
「お国からの手紙ですか。まさか悪い便りではないでしょうね。」
 彼女は例の新聞社の報酬に関する手紙だと思ったのだろう。
「いや。心配することはない。あなたも名前を知っている相沢が大臣とともにここに来ていて、私を呼んでいるのだ。急ぐということだから、今から出掛けます。」
 かわいい一人息子をおくりだす母親でもこれほどは気を配ることはあるまい。大臣に謁見することもあろうかと思うからか、エリスは病身をおして起き、シャツもきわめて白いものを選び、丁寧にしまっておいたゲエロックという二列ボタンの服を出して着せ、ネクタイまで私のために手ずから結んだ。
「これで見苦しいとは誰も言えないでしょう。鏡の方を向いてご覧なさい。どうしてそんな不機嫌なお顔をお見せになるのですか。私もご一緒に行きたいほどですのに。」
 少し様子を改めて、
「いいえ。こうして立派に衣服をお改めになったのを見ると、何となくわたくしの豊太郎様には見えません。」
 また少し考えて、
「たとえ富貴におなりになる日があっても、わたくしを見捨て下さいますな。わたくしの病気が母のいわれるようなものでないとしても。」
「なに、富貴だって。」
 私は微笑した。
「政治の世界などに出ようとの望みを絶ってから何年も経ってしまったのだ。大臣には会いたくもない。ただ長年別れたままの旧友に会いに行くだけだ。」
 エリスの母が呼んだ一等馬車(ドロシュケ)は車輪をきしませ雪道をすぐ窓の下まで来た。私は手袋をはめ、少し汚れた外套を背中にかけて手は通さずに帽子を取り、エリスにキスをして階段を降りた。
 彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせるにまかせて私の乗った馬車を見送った。
 私が馬車を下りたのは「カイゼルホオフ」の入口である。門衛に秘書官相沢の部屋の番号を尋ね、久しく踏み慣れていない大理石の階段を昇り、中央の柱にヴェルヴェットのカバーを掛けたソファを備え置き、正面には姿見を立ててある控の間に入った。外套をここで脱ぎ、廊下を通って部屋の前まで往ったが、私は少しためらった。一緒に大学にいた頃、私の品行方正であるのをさかんにほめるていた相沢が、今日はどのような顔つきで出迎えるであろう。部屋に入って向かい合って見ると、姿かたちは以前に比べると太って逞しくなったものの、相変わらず快活な性格で、私のしくじりをもそれほど問題にしていないらしく見えた。一別後の事情を詳しく述べるひまもなく、彼に連れられて大臣に拝謁し、委託されたのはドイツ語で書いた文書で急に必要な文書を翻訳するようにとのことであった。私が文書を拝受して大臣の部屋を出た時、相沢は後から来て、私と昼食を共にしようと言った。
 食事の席では、彼が多く質問し、私がもっぱらそれに答えた。彼のこれまでの生活がおおむねなだらかに来たのに対して、不運不遇であったのは私の身の上のほうであったからである。
 私が心を開いて一部始終を語った不幸な経歴を聞いて、彼はたびたび驚いたが、むしろ私をとがめるよりは、かえって他の凡庸な留学生仲間たちを罵倒した。しかし、話が終わった時、彼は改まった表情になって忠告するには、
「この一件は、もともと君の生来の心弱さから発したことであるから、いまさらどうこう言ってもしかたのない。とはいっても、学識も才能もある者がいつまでも一少女の情にこだわって目的の無い生活をすべきではない。今は天方伯爵もただ君のドイツ語の語学力を利用しようというお気持ちしかない。私もまた伯爵が君の免官の理由をご存じであるから、強いてその先入観を改めようとはしない、伯爵から道理を曲げてまで人をかばいだてするなどと思われては、友のためにもならず、わが身にも不利だからだ。人を推薦するには、まずその能力をしめすに越したことはない。能力を示して伯爵の信用を求めよ。またその少女との関係は、たとえ彼女にまごころがあっても、いかに二人の交わりが深いものになっていたとしても、才能を知っての恋ではなく、慣習という一種の惰性から生じた関係である。思い切って彼女との関係を断て。」と。これがその忠告の言葉の概略であった。
 海原で舵を失った人が、はるかに山を認めたようなのが、相沢の私に示した今後の方針ではあった。けれどもこの山はまだ幾重にも立ちこめた霧の中にあって、いつ行き着くとも、いや、果たして到達すべきものとも、さらにまた心から満足を与えてくれるものとも、いっさいはっきりとはしなかった。貧しい中にも楽しいのは現在の生活であり、エリスの愛情は見捨てがたい。私の弱い心には決意するすべもなかったが、ひとまず友人の言葉に従ってこの関係を断つことを約束した。私は自分の守るものを失うまいとして、わが身に敵対するものに対しては抵抗するけれども、味方の友人に対してはいつもいやと断われないのであった。
 友と別れて表に出ると、風が顔に吹き付けた。二重のガラス窓をしっかり閉ざして、大きな陶製の暖炉に火を焚きつけたホテルの食堂を出たのであったので、薄い外套をとおす午後四時の寒さは格別に耐え難く、鳥肌が立っとともに、私は心の中にも一種の寒さを覚えたのだった。
 翻訳は一晩で仕上げた。カイゼルホオフ・ホテルに通うことはこれ以後だんだん頻繁になっていくうちに、初めは伯爵の言葉も用事だけであったが、後には最近故国であったできごとなどを取り上げて私の意見を問い、折に触れては道中で人々がしくじったことなどを告げてお笑いになった。

 Gひと月ばかり過ぎて、ある日伯爵は突然私に向かって、
「私は明日の朝、ロシアに向かって出発することになっている。君は随行できるか。」と問われた。私は数日の間、例によって公務繁忙の相沢には会っていなかったので、この問いかけは不意を突いて私を驚かせた。
「ぜひとも仰せに従いましょう。」
 私は自分の恥をここに告白しよう。この返事は即座に決断して言ったのではない。私は自分が信頼する気持ちを起こした人に、急にものを尋ねられたとき、とっさの間、その答えの及ぶ範囲をよく考えもせず、すぐさま承諾することがある。そうして承知したあとになってその実行しがたいことに気づいても、その時に心が空虚であったことを無理にも覆い隠し、我慢して約束を実行することが幾度もあった。
 この日はいつもの翻訳の代金に加えて、旅費まで添えて下されたのを持ち帰り、翻訳代金をエリスに預けた。これでロシアから帰って来るまでの家計を支えることはできよう。彼女は医者に診せたところやはり子供が出来ているとのことだった。貧血の性質であったから、何ヶ月か気づかなかったのであろう。支配人からは舞台を休むことがあまりに長くなったので除籍したといい寄こした。休んでからまだひと月ほどであるのに、これほど厳しく言ってきたのはわけがあるからであろう。彼女は私の旅立ちのことにはそれほど心を悩ます様子も見えなかった。偽りのない私の心を篤く信じていたので。
 鉄道で行けばそれほど遠くもない旅であるから、支度というほどのものもない。身の丈に合わせて借りた黒の礼服、新しく買い求めたゴタ版のロシア宮廷貴族の系譜、それに二三種の辞書などを手提げカバンに入れただけだ。エリスはさすがに心細いことばかり多いこの頃のことであるから、私が出て行く後に残るのも気が重いだろうし、また駅で涙をこぼしなどしたら後ろ髪を引かれる思いになってしまうので、翌朝早くに、母とともに知人の家に出してやった。私は旅支度を整えて家の戸を閉め、鍵を建物入口に住む靴屋の主人に預けて出かけた。
 ロシア旅行については、何事を書くべきであろうか。これといって述べるほどの事はない。
 通訳としての任務につくと、ひたすら忙しく、たちまちロシア朝廷のただ中にいるのだった。私が大臣の一行に従ってペエテルブルクにあった間、私の周囲を取り巻いていたものは、パリでも最高にぜいたくな華やぎを氷雪の中に移しかえたかとも思われる宮殿の装飾であり、わざわざ黄色い蝋燭をおびただしく灯した中に、星を重ねた勲章の数々、いくつもの肩章にきらめく光、技巧の粋を尽くした彫刻の施された暖炉の火に寒さも忘れて官女たちが使う扇の輝きなどで、この人々の中にあってフランス語をもっとも流暢に話すのは私だったので、主客の間をとりもって通訳するはほとんどが私の務めだった。
 この間にも、私はエリスを忘れなかった。いや、彼女は毎日のように手紙をよこしたので、忘れようがなかった。
「あなたがお発ちになったその日は、いつになく一人で明かりに向き合うのがつらく、知り合いの所で夜になるまで話を交わし、疲れるのを待って家に戻り、そのまますぐに寝てしまいました。翌朝、目が覚めたとき、なお一人留守をしているのが夢ではないかと疑いました。やっと起き出したときの心細さ、このような思いは、暮らしに困ってその日の食べ物がないような時にも、したことがありませんでした。」
 これが第一の手紙のあらましである。
 またしばらくしてからの手紙は、たいへん思いつめて書いたようであった。初めを「いいえ」という文字で書き起こしてあった。
「いいえ、あなたを愛する心の深い底を今こそ思い知りました。あなたは故国には頼りになる親類など無いとおっしゃいましたから、こちらに暮らしの立つ何かよい手段があれば、ずっとこちらに留まらないはずはないでしょう。また、私の愛情でつなぎ止めずにはいないでしょう。それもかなわず、東洋にお帰りになるというならば、母と一緒に行くのは簡単ですが、そのための多額の旅費をどこで得ましょう。どんな仕事をしてでも、この地に踏みとどまって、あなたがご出世なさる日を待とうと常には思っていましたが、しばらくの旅といってお出かけになってからこの二十日ばかり、別離の思いは日ごとに深まっていくばかりです。たもとを分かつのはただ一瞬の辛さと思っていたのは間違いでした。私の身体もだんだん目に立つようになってきます。それもある上に、たとえどのようなことがあっても、決して私をお棄てくださいますな。母とはずいぶん争いました。けれども、私が以前とは異なり、固く決心した様子を見てはようやく納得したようでした。私が日本に行く日には、自分はステッティンの辺りの農家に遠い親戚がいるから、そこに身を寄せようと言います。お手紙にあるとおり、大臣様に取り立てられなさいましたなら、私一人の旅費くらいはどうにでもなりましょう。今はただ、あなたがベルリンにお帰りになる日を待つばかりです。」
 ああ、私はこの手紙を見てはじめて自分の置かれた立場をはっきり見極めたのだった。わが心の鈍さがなんとも恥ずかしい。私はこれまで、自分一人の身の上についても、何の関係もない他人の有り様についても、優れた判断をするものとひそかに誇っていたが、その決断力とは、順境の時にのみ有効で、逆境には全く働かないものだった。自分と人との関係をはっきりさせねばならない時、せっかくの頼みとする知恵の鏡はくもってしまうのであった。
 大臣はすでにわたしを厚く信任している。しかし、目の前のものしか見えない私はただ自分の果たしている任務のみを見ていた。私はこれに未来の望みを繋ぐことまでは、(神もご承知だろう)決して思いも及ばなかったのである。しかし、いまこのことに気づいて、なお私は平静でいられたろうか。以前、親友が私を推薦したときは、大臣の私に対する信用は、まだドイツの諺にいう屋根の上の鳥のように手の届かないものだったが、今はいくらか信用も得たらしいと思えるまでになったので、このごろ、相沢が言葉の端に、本国に帰ってからもこうして一緒に働けるなら云々と言っていたのは、大臣がその様に言ったのを、友人ながらも公務に関することゆえはっきりとは口にしなかったのであったか。今になって思い返してみれば、私が軽率にも彼に向かってエリスとの関係を断とうと言ったのを、彼は早くに大臣に伝えたのであっのだろうか。

 Hああ、ドイツにやって来た当初、自分の本領を悟ったと思い、また二度と機械的人間にはなるまいと心に誓ったが、これは足を結わえたまま放し飼いにした鳥がしばらく羽を動かしてみて、おのれは自由であると誇っていたようなものではないか。脚の紐はほどくことができない。初めこの紐を握っていたのは某省の私の上官であり、今ではこの紐は、なんと天方伯爵の手中にある。
 私が大臣一行とともにベルリンに帰ってきたのは、丁度新年の元日の朝だった。一行とは駅で別れを告げて、わが家をさして馬車を走らせた。当地では今でも除夜に眠らず、元旦に寝る習慣なので、どの家もひっそりと静まりかえっていた。寒さは厳しく、路上の雪は凍り固まって氷片となり、朝日に映じてきらきらと輝いていた。馬車はクロステル小路に曲がって、家の戸口に止まった。この時、窓を開ける音がしたが、車からは見えなかった。馭者(ぎょしゃ)にカバンを持たせて、階段を昇ろうとすると、エリスが階段を駆け降りてくるのに出合った。彼女が一声叫んで私のうなじに抱きついたのを見て、馭者はあきれた顔つきで、何やら髭のうちでつぶやいていたがよくは聞き取れなかった。
「ようこそ帰っていらっしゃいました。このままお帰りにならなかったら、我が命はきっと絶えてしまったに違いありません。」
 私はこの瞬間まで依然決心がつかず、故郷への思慕と栄達への願望とは、時としては愛情を押し潰そうとしたが、この一刹那、心決めかねてのうやむやな気持ちは消えて、私は彼女を抱きとめ、彼女の頭は私の肩にもたれて、その喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちた。
「何階まで持っていくかね。」ドラのような声で叫んだ馭者は、さっさと階段を昇って階段の上に立っていた。
 戸の外に出迎えたエリスの母に、「これで馭者をねぎらってください。」と銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに連れられ、急いで部屋に入った。一目見るなり、私は驚いた。テーブルの上には白い木綿、白いレースなどをうずたかく積み上げてあったから。
 エリスはにこにこしながら、これを指さして、
「何だとご覧になりますか。この支度を。」
と言いながら、一つの木綿のきれを取り上げたのを見れば、それは産着(うぶぎ)だった。
「私のよろこびを想像できますか。生まれてくる子はあなたに似て黒い瞳を持っていることでしょう。この瞳。ああ、夢にばかり見たのはあなたの黒い瞳です。この子が生まれてきた日には、あなたの正しいお心で、けっして私生児にして太田以外の名前を名のらせたりはしないでください。」
 彼女は頭を下げた。
「幼稚だと言ってお笑いになるでしょうが、教会へ洗礼に行く日はどんなにかうれしいことでしょう。」
 見上げた目には涙が満ち溢れていた。
 二、三日の間は、大臣も長旅でお疲れであろうと思い、あえてお訪ねもせず、家にばかり籠っていたが、ある日の夕暮れ、使いがやってきて招かれた。往ってみると格別の待遇で、ロシア行きの慰労の言葉をかけられた後、
「わしと一緒に東へ帰る気はないか。君の学問は私には推察もできないが、語学だけでも世のために大いに役立つことだろう。こちらでの滞在もずいぶん長いので、なにかと面倒な係わりある人もあろうと相沢に尋ねたところ、そういう者はいないと聞いて安心した。」と仰せられた。
 その様子は、とうてい断りようもないものだった。ああ、しまった、と思ったが、さすがに相沢の言葉を嘘だともいえず、さらにもし、この手づるにすがらなかったならば、本国を失い、名誉を取り戻す手段もなくし、この身は広漠たる欧州の大都会の人の海に葬られるかという思いが瞬間頭に湧き起こった。ああ、なんという節操のない心か、「かしこまりました。」と答えていたのは。
 いかに鉄面皮の自分であれ、帰ってエリスに何と言おう。ホテルを出たときの私の心の錯乱は、たとえるものも無かった。私は道の東西も分からず、憔悴しきって歩いていく間に、すれ違う馬車の馭者に何度も怒鳴られ、その度に驚いて飛びのいた。しばらくしてふとあたりを見ると、動物公園のそばに出ていた。倒れるようにして道路際のベンチに腰掛けて、焼けつくように熱し、木槌で叩かれるようにがんがん響く頭を背もたれにもたせかけ、まるで死んだようになって幾時を過ごしたろうか。激しい寒さが骨にしみとおるように感じて我に返ったときは、もう夜に入って、雪が盛んに降りしきり、帽子の庇にも外套の肩にも、雪は一寸ほども積もっていた。
 もはや十一時を過ぎただろうか。モハビットとカルル街の間を通う鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルク門の辺りのガス灯は寂しい光を放っていた。立ち上がろうとしたが、足が凍えているので、両手でさすって、ようやく歩けるくらいにはなった。
 足の運びもはかどらないので、クロステル小路まで来たときには、夜中を過ぎていたであろう。ここまで来た道を、どう歩いてきたのか分からない。一月上旬の夜のことで、ウンテル・デン・リンデンの酒場やカフェはまだ人の出入りで盛んに賑わっていたであろうが、少しも覚えていない。わが脳裏には、ただただ、自分は許すことのできない罪人であるという思いだけが満ち満ちていた。
 四階の屋根裏には、エリスはまだ起きているらしく、明るい光が一つ星のように、暗い夜空にすかしてはっきり望まれたが、降りしきる鷺の舞うような白い雪片に、被われたかと思えばまた現れて、あたかも吹雪く風に弄ばれているかのように見えた。建物に入ると疲労を感じ、身の節々の痛みが耐え難いので、這うようにして階段を昇った。台所を過ぎ、部屋の戸を開いて入ったとき、テーブルに向かって産着を縫っていたエリスはこちらを振り返って、「あっ。」と叫んだ。
「どうなさいました。そのお姿は。」
 驚いたのももっともであった。真っ青になって死人のような私の顔色、帽子をいつの間にか失くし、髪はぼうぼうに乱れて、何度か道につまずいて倒れたので、衣服は泥まじりの雪に汚れ、ところどころ裂けていたのだから。
 私は答えようとしたが、声が出ず、膝しきりにががくがくと震えて、立っていることができないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま床に倒れてしまった。

 I意識を回復したのは、数週間の後のことだった。熱が激しく、うわごとばかり言うのを、エリスが手厚く看病するうちに、ある日、相沢は訪ねてきて、私が彼に隠していた事の次第を詳しく知り、大臣には病気のことだけを告げ、良いように取り繕っておいたのだった。私は病床に付き添っているエリスを初めて見て、その変わり果てた姿に驚いた。彼女はこの数週間のうちにひどく痩せ、血走った目はくぼみ、血の気の失せて灰色になった頬はげっそりこけていた。相沢の援助で日々の衣食には困らないが、この恩人は彼女を精神的に殺してしまったのだった。
 後で聞けば、彼女は相沢に会ったとき、私が相沢に与えた約束のことを聞き、またあの夕方、大臣に申し上げた承諾の返事を知って、急に席から跳び上がり、顔色はまるで土のごとく、
「私の豊太郎様、そこまで私をだましていらしたのですか。」
と叫び、その場に倒れてしまった。相沢は母親を呼んでともに助けて寝床に横たえたが、しばらくして目を覚ましたとき、目は直視したままで、近くの人も視野に入らず、私の名前を呼んで激しく罵り、自分の髪をかきむしり、布団をかんだりなどし、また急に正気に戻った様子で何か物を探し求めたりした。母親が取ってやるものを全て投げ捨てたが、テーブルの上にあった産着を与えたところ、探り見て顔に押し当て、涙を流して泣いた。
 これ以後は騒ぐことはなかったが、精神の働きはほとんどまったくすたれて、その物を解せぬさまは赤ん坊のようであった。医者に見せたところ、極度の心労による急性のパラノイアという病気なので、治癒の見込みはないという。ダルドルフにある精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで聞き入れず、後には例の産着一つを身から離さず、何度か出しては見、見てはすすり泣く。私の病床を離れることはなかったが、これすら意識があってのことではないと思われた。ただ、時々、思い出したように、「薬を。薬を。」と言うばかり。
 私の病気はすっかり治った。生ける屍のエリスを抱きしめて涙をどれほど流し続けたことだろうか。大臣に随行して帰国の途につく際には、相沢と相談してエリスの母に細々と生計を立てるに足るほどの元手を与え、痛々しい狂女の胎内に遺してきた子どもが生まれたときのことも頼んでおいたのだった。
 Jああ、相沢謙吉のような良き友はこの世にまたと得難いであろう。けれども、私の脳裏には一点の彼を憎む心が今日までも残っているのであった。

                                          完

資料:津和野町森鴎外記念館

劇団俳優座公演
三越劇場 2002年6月6日〜23日



寺嶋真里「エリスの涙」2004年

青春アニメ全集  1986年6月27日放映

 

 (サイトの本体)
フレーム頁でない方は
こちらからお入り下さい