「定年春秋」短歌・俳句 庵の案内へ

「定年春秋」短歌・俳句      
 定年一年が過ぎて、その前後の心境を短歌と俳句それぞれ五十首・五十句作ってみた。それぞれこれまでの作歌作句経験は乏しく、特に俳句は始めいて四ヶ月ほどの時であった。それぞれ雑誌企画の新人賞の公募に応じたものであるが、いずれも予選を通過していない代物ではある。
 元は別々に応募したものですが、ここでは短歌と俳句を一首一句を対応させて掲載しています。

賀状には祝いの言葉連なって定年退職覚悟する旦(あさ)
  年開けぬ定年退職覚悟せり

教壇を去る日近づく昼休み若き声々身に響き沁む
  春立ちて残れる日数指に折る

春めけば残りの時間限られて語る言葉は少なくなって
  語らむに限り有りたり浅き春

新しい葉にいのちを譲り落ちる葉よ愛おしく見ゆ春の朝
  譲り葉の落つる時節や冴え渡る

譲り葉の新たな命継ぐ様を人にも語り己にも語る
  譲り葉の思ひ語れる春寒し

自ら燃えねば光なしと語る言葉も自分に向ける卒業期
  春めけば自ら燃えよと語り居る

繰り返し語り続けた青春の夢の足跡四十年
  青春の夢語りゐて四十年

教員生活最後の授業終えて手洗う水の冷たさ
  春動き最後の授業終えにけり

別れ時涙を見せる子等が居て子等の未来の笑顔を想う
  眸濡らす蕾もやがて咲きぬらむ

授業終えて机に仕舞うチョーク箱の残るチョークを眺めいる
  四十年終えて去りゆく春惜しむ

過去未来思うこと多く湧き出て眠らぬ夜過ぎて定年の朝
  春暁や眠ることなく一人坐す

三十年妻の作った弁当も今日を限りと箸を置く時
  桜漬弁当終ふ日ぞ来たる

人ごとに別れの言葉繰り返す桜の花にまだ蕾あり
  春かなし別れの言葉繰り返し

退職の花見の宴に杯を重ねて宵の風頬に受く
  花受くる退職の日や頬に風

宴終わり花に埋もれて別れ行く桜吹雪に演出されて
  挨拶も花に埋もるる別れかな

挨拶の言葉を選ぶ離任式心残りを悟られぬよう
  花衣心残しに別れゆく

惜別の歌に想いを残しつつ人と別れた花冷えの夜
  宴終り見あぐる空や朧月

還暦の祝いの宴終わるとき職を離れる寂しさ勝る
  還暦の宴終え去りぬ花のもと

勤め終え花束抱え門に立ち妻に伝える言葉を探る
  花束を幾つ抱えて家の門

「ご苦労様でした」の妻の言葉に涙する夜春は朧月
  妻の言聞きて涙や夜半の春

江戸川の散歩コースに出てみればまだまだ若い新入生
  川堤散歩コースの新入生

犬も又新たの友に出会いたり春草萌える散歩道行く
  犬もまた新たな日課春の朝

出勤する妻を見送る駅までの散歩が朝の新たな日課
  出勤の妻見送るや春の雲

菜の花が咲き続く田舎道行く手押し車は遙かに遠く
  菜の花や手押し車のはや遙か

沢をのぼり山に入る何処に咲くのか桜の花弁が舞い落ちてくる
  沢渡り八重桜咲く山に来し

鴬の啼く音間近に驚きぬ里山清か風が吹き過ぐ
  鶯の声の間近に驚きぬ

雨上がりチューリップの花弁は五月の風に涙光らせて
  花弁を閉ざして濡るるチューリップ

初めての畑耕しトマト植う田舎暮らしの手習いとする
  トマト植う田舎暮らしの手習いに

気がつけば蛙の声が地に満ちて夕刻の空に星の輝く
  日落ちて蛙の叫び地に満てり

植え終えた田の面に雲が流れゆき畦道ごとに雲追いかける
  植ゑ終えし田毎に雲は流れゆく

鯉幟りが風を孕んで泳ぎ行く空に白々有明の月
  鯉泳ぐ空の向かふに月有りて

人生の新たなる道見つけたい散歩コースを見つけるように
  五月来て散歩の道も新しく

夏めけば白い尾を振る犬連れて海への道は気持ちも新た
  夏めけば犬の尾白く輝けり

草むしる手にドクダミの匂いつき少年の日に思いはつづく
  どくだみの匂ひ少年期蘇る

退職後初めて訪ねる教室は夏季休暇中補習の声響く
  退職の後訪ぬれば夏期講習

夏の陽の照り返す校庭に一人立ちつくして振り返っている
  炎昼の校庭白し我一人

夏休みの教室に一人座っている西日に埃が白く浮き立つ
  西日射す教室にゐて夏休み

夏草を刈る手濡らして汗粒が滴り落ちて陽は空の真中
  蚊遣りたき草取る手許汗光る

雑草の茂る合間のままごとに似た畑にも茄子五つ六つ
  ままごとの如き畑に茄子生る

里山を幾つ越えたか木の間から遠くの夏の海が匂った
  青嶺越え又越えて海遠望す

向日葵の花群れ咲いて夏終わる人の逝きたるこの夏終わる
  人逝けり向日葵の花群れ咲けり

墓碑銘の新たな刻み鮮やかに止まりし蝶は空に舞い去る
  刻み新たな墓碑銘に夏の蝶

お互いの老いを確かめ亡き人の忌日書き込む同窓の宴
  同窓の忌日加えり夏の果て

広島を訪ねて慕ぶ六十年命あること平和なること
  命あることを思へり原爆忌

熱情という新しい夢語る八十才に会い夏終わる
  新たなる夢の生まれて夏終わる

空染める浅間に確と火の山の本性を見し火山灰降る
  秋の村地異のかたみの灰降りぬ

秋空に煙の高くたなびけば火の物語は静かに語れ
  火の山の煙の赤く染まる秋

縁先に一人座って秋の月を見ているばかり雲が流れる
  名月や夢育みて一人座す

雲の流れている空を見上げている来し方も行く末もなくて
  見上ぐれば雲の流るる深き秋

木々揺らすかまびすき音の耳を打つ風の向こうは雪降る気配
  雪近し杉篁(すぎたけむら)の声聞きつ

                     ―終―