T ぱれっと
トップへ
<
戻る ページの
トップ
@ A B C D E F G H
  


  立原道造の生涯T

      ―抒情を形造るもの―
         詩人の誕生(一高卒業まで)
 どうして愛がおまえのところへやって来たのだろう。
 陽の降りそぞぐように 落花の雪のように それとも
 祈りのように やって来たのかしら?――
 それを 語りたまえ。   
R・M・リルケ (星野訳)

  そうしてどんな風におまへは来たの?
  日の照るやうに、花吹雪のやうに来たのかしら
  祈りのやうに来たのかしら―― おはなし


   目次
  出自・小学校時代  ・・@
  中学校時代     
    ・三中     ・・A
    ・パステル画  ・・B
    ・自選葛飾集  ・・C
  一高時代
    ・文芸活動   ・・D
    ・短歌から詩へ ・・E
    ・詩人の胎動  ・・F
    ・立原の立脚点 ・・G
    ・詩人の誕生  ・・H 




詩人の誕生まで(一高卒業まで)
 立原の文学的出発がいつどのようになされたを問題にする場合、彼の育った下町という環境と風土をふまえなければならないのは勿論であるが、もって生まれた素地・性向と積み重ねた素養に彼の文学性を育てたものを探ってみよう。

『出自・小学校時代』
         
 日本橋の橘町に道造が生まれたのは、明治が終わって満二年、大正三年(1914)七月三十日のことであった。まだ明治の気風は下町に溢れていたが、大正政変の後、サラエボの一発が全世界を大戦の渦に巻き込んでいった時であった。
         
 道造は下町の子供としてその気風を身につけつつ伸びやかに育っていったであろう。問屋の軒続きにある街で、実家は商品発送のための木箱の製造を営んでいた。父が六才の時に亡くなってからは、母と弟の三人家族と多くの傭人の間で育った。おとなしくはにかみやで運動嫌いな子供だったという。下町の子供らしく剣舞を習い、母と共に芝居見物に行っては声色をまねたり、ばあやに連れられて相撲部屋を訪れたりしている。その折、力士と遊んでるうちはいいが、いざ稽古が始まると「喧嘩はいやだ、いやだ」といってむづがり出したという逸話があるが、これは彼の気質をよくあらわしている。
 大正十二年九月一日の関東大震災は、九才の時である。その折は案外のんびりしていたという。
 立原は背が高く教室の後ろの方に座っていたという。久松小学校はずっと主席で通したが、目立たないおとなしい子であったという。(主に、神保光太郎の「立原道造の生涯(四季追悼号)」による)
「兄の思い出」で弟・達夫は、
「よく喧嘩をしました。兄のことを思い出しますのは、まず第一に、そのことです。それから、那古船形に行ったり、御嶽(奥多摩)に行ったりしました。那古船形は千葉県の海岸ですが、二人とも泳げないので、濱で遊びました。
 兄は小学校の頃は、あまり友達と遊ばないで、先生とばかり遊んでいました。特に山田先生とは仲がよかったようです。」と書いています。
 彼の最初の(文学的)作品は、「滑稽読本 第一」(道造編とする小品五編からなる文庫版手製和綴り本の小品集・大正十五年五月・「門松の期限・サイマツ・シャカ誕生・古人と煙草・国勢調査」)であろうが、その頃の関心事を物語って面白いものである。しかし、それは彼の文学的目覚めであるとするには、余りに子供らしい作品であって、これは彼の育った環境が彼にこのような遊び を憶えさせたのであろう。だが、この江戸的趣味は彼の危うげな晩年を思い出させ、そこへ導いていった一つの因でもあった。



中学校時代
『三中』
 道造は久松小学校を経て、昭和二年(1927)に東京府立第三中学校(現 両国高校)へ入学。三中出身の文学者に芥川龍之介・堀辰雄がいた。三中も秀才で通し、絵画部・博物部・弁論部に関わっていたという。
      
 
『パステル画』
 絵画部にはいってからパステル画を本格的に描きはじめ、学友会大会に毎年作品を出品しては、高い評価を得ている。現存するパステル画約一〇〇点の殆どは、この三中時代の十三歳から十七歳(1927-31年)頃に制作されたと推定され、それらの作品は、生家のあった日本橋・静養先の流山(旧新川村)・避暑をした御岳の風景画、身近な物を描いた静物画、心象スケッチともいえる抽象画、人物画と、画題は多岐にわたってる。
      
 神田の文房堂で、二〇〇種類もの緑色(道造はとりわけ緑が好きだったという)のルフランのパステルを買ったと伝えられており、好みのパステルを手に描き出された作品世界には、単なるリアリズムにとどまらず、ヨーロッパモダニズムの影響が見られ、青春の心の詩とでもいえるような夢や息づかいが感じらる。
 日本橋の風景を描いたパステル画には、関東大震災(1923年9月)後の1929年に再建された「立原道造商店」のヴェランダから見下ろす構図が多く見られ、荒廃から次々と復興していく町の様子が、鮮やかな色彩で描かれてる。「街上小景」「町の風景」「荒廃」「屋根の風景」といったタイトルの絵は、子供の絵ではなく、建物がしっかり描かれており、当時流行の看板建築を知るうえでも貴重な資料になるという。(主に立原記念館パンフレットより)
 
『自選葛飾集』
 昭和六年(1931)に四年の中学をおえるが、この四年間の作品(短歌)をまとめて、「自選葛飾集(山本祥彦第一歌集)」を編んでいる。
 これは「序」に記されるように「最初の二編『葛飾集』と『硝子窓から』とは、旧作二百五十ばかりの中の選集である。『葛飾集以後』から、僕の歌作ノートである」。
 「葛飾集以後」以下の歌ノートは、ほぼ昭和四年(1929)八月以後約一カ年の間(歌の内容から五年秋頃までと推定される)に書かれたものであろう。この歌ノートによって彼がその出発において文学をどのように捉えていたかを見ることが出来る。
 まず、彼の出発が短歌にあったことはやはり見逃すわけにはいかない。
 彼の短歌はほとんど三行の分かち書きで、これはその頃愛読していた啄木の歌集の影響であろう。そこから彼の詩が生まれてきたことを思えばまた面白い。(「僕は中学三年生の頃の秋の日のことなどよくおもいだす。僕がそのころ「一握の砂」や「悲しき玩具」の愛読者で模倣歌の作者だった」杉浦宛手紙)
 また、口語歌の試作として最初に詠われている歌に
   耳を木にあて、
   小半日泣いて居た、
   あの時の空、
   薄暗かった。
がある(これは例外的に自由律の四行分かち書き)。ここに顕れているほのかな抒情は後の詩編に通ずるものがある。
 なお、「硝子窓から」(昭和三年一二月〜四年三月の歌)には自殺という言葉が幾つか出てくるが、これは少年誰しもが持つ自殺への夢ばかりでなく、芥川の自殺事件がいつも立原の胸の中に小さな波紋を漂わせていたためでもあったと思われる。(「芥川先生の死、夏休みが始まると直ぐ起ったあの出来事、僕があの事を知ったのはその翌日、何気なく朝の新聞を開いた時でした。すると、どの新聞も『或る友人に送る手記』の全文、抄出思い思いに掲げ、在りし日の写真、そうして氏の略伝を添へて有ったのでした。三中出身、僕の今学んでいるこの学校の先輩さうして文壇の鬼才だった先生の御魂永久に安かれとお祈りいたしました。/但し、どうしてあんな偉い先生がたどうして自殺なんかなさったのでせう。さうはいふもの、偉い先生だから人生の奥底までみつめられ、人生というものに対して或る淋しい感、自然と比べて短い命を嘆かれああいふことをなさったのでせうか。」昭和二年七月二六日・八月三一日橘宛手紙)
 また、昭和四年の歌(二月より八月に至る歌)には、若い道造の胸に湧き上がった幼い記憶が、感傷的にはかない情緒をもって歌われている。それらの歌は道造の後の詩を産み出す彼の持ち備えていた資質・情感を伝えている。はやくも彼の抒情は歌となって吐露され、そのはかなく美しい澄んだ瞳の少年は、華に川に風に山に小さな命に、その情感を詠っている。
 「葛飾集以後」になると、道造の歌才をうかがえる作品が少なくない。「後書」で道造が「この短歌の持つ純なエロチックな気持ち、夢のやうな淡さ、何かあこがれている情緒」といっているように、そこには後の彼の詩の萌芽を見ることが出来る。
 それは例えば 「葛飾集」最後の歌
   片恋は夜明淋しき
   夢に見し久子の面影
   頭にさやか
 この歌に始まる、友人の妹(博物の金田先生は叔父に当る)への思慕感情を詠った作品や、同じ言葉か繰り返される歌、(極端な例になるが)
   はじかみは根さへ茎さへ
   はじかみは茎さへ根さへ
   はじかみの味
といったものなどに顕れている。


 昭和四年(1929)制作のこのパステル画のモデルは、府立三中の級友の妹金田久子といわれている。立原の密かな想いは告げることなく終わるのだが、当時盛んに作っていた口語自由律短歌に歌われている。この恋への姿勢はこの後も彼のスタイルとなった。
        


 この昭和四年頃は、天文学に興味を持ち、天体望遠鏡を覗いたり、「天文月報」や「萬有科学大系」を読みふけり、大学で天文学を専攻する意向を持ったため、父親亡き後店の看板は「立原道造商店」と改め、道造で三代目となっていたが、店は弟達夫が継ぐことになったようである。その頃のことを達夫は「伊達さんとは天文学の方でも仲がよく、物干台に天体望遠鏡を置いて、二人で見た結果を話し合っていました。私もよく夜中に連れて行かれて月や星を眺めました。その頃は『子供の科学』をとっていました」(「兄の思い出」)と記している。
 この中学三年の一学期は、神経衰弱のため休学していた。
 進路に関しては、絵の才能を生かしての画家を目指そうと思うこともあったが、母親の反対もあり、天文への関心も強く、一高の理科甲類に進むこととなる。

一高時代
文芸活動
 昭和六年(1931)に、両国にあった第一高等学校理科甲類(英語)に入学する。
 最初の一年は寮生活で、家を離れた当初激しい郷愁を経験し、「益々さびしがり屋になった」(達夫「兄の思い出」)。
 卒業(昭和九年)までの間、「交友会雑誌」「波止場」「詩歌」「向陵時報」「こかげ」に歌や物語を発表する。

「交友会雑誌」(333・333・335・342・344号 、333に物語「あひみてののちの」を掲載)
「波止場」(同人誌・ミチ.タチのペンネーム)
「詩歌」(前田夕暮編輯・三木祥彦のペンネーム・12巻7〜12、13巻2.3.5.6.)
「向陵時報」(ローマ字表記の歌七首=一高ローマ字会の活動)
「こかげ」(同人誌・物語(「はかない夢のような」物語・散文詩、創刊号〜4号))
 「こかげ」同人と・右端

『あいみてののちの』
「校友会雑誌」(昭和六年九月号)所載の物語である。 
 これは当時の一高生にとって「大きな驚きをまきおこした小説」(杉浦)であった。太田克己は「立原は一躍一高文壇の寵児となった。たしかにそのどこか空っとぼけのした純粋な童画風の作品は、一途に大人になりたがろうと爪尖だっていたぼくたちの虚を衝いたものであった。努めて思想的てあろうとし、生活の中に首をつっ込んで現実世界をぎりぎりの点まで追い詰めてみることに文学実態を把握しょうと試みていた風潮のさ中にあって、これはまたなんという野放図な楽天ぶりであったろう!」と語っているように、道造の独特の文学的感性で描かれた小説であった。それはまた彼の文学観を示すものであった。
 物語については、立原は「小説を書いたりしてみます。やっぱりだめです。ある人が、それはTheorie(理論)がないからだといひますが、そんなことは信じません。…きっと僕の持ってゐるMarchen(メルヘン)の心がこはれて行くからなのだと思ひます」(昭和七年金田宛手紙)と書いています。彼にとって文学が目指すものはMarchen(メルヘン)の中にあると信じられていた。

 その頃の彼の友人には、杉浦明平、太田克己、生田勉、國友則房、江頭彦造、猪野謙二、田中一三、寺田透等がいた。理系でありながら、文学活動を通して、文系の友人も多くなった。
(杉浦明平=1913〜2001 作家、評論家。愛知県生まれ。1936年、東京大学文学部国文科卒業。敗戦後は郷里渥美郡福江町(現渥美町)に住み、町会議員などを経験。
 生田勉=1934年に東京帝国大学の農学部林学科に入学。その後、建築学科に再入学。同大学で丹下健三などとも交流を持ち、卒業後は「建築は丹下君に任せる」といい、自身は海外の建築家の研究を続ける。言葉どおり多くの翻訳を発表する傍らで、数は少ないがシンプルで斬新な設計を続けた。
 江頭彦造=詩人。のち大学時代に、猪野謙二、江頭彦造と同人誌『戯画』創刊。)

 立原は「誰にでも唯一の親友と思わせるような一種の徳を持っていた」(江頭)。それは彼の友人に宛てた数多くの書簡によく顕れていて、友人も多くその友情も厚いものであったが、それはまた多分に都会的なさっぱりした消極的なものであった。「あいみてののちの」にもそれは現れていて、彼の特異な感性として生きている。

 また、この昭和六年・一高一年生の秋、一高の先輩でもある堀辰雄の面識を得、以後兄事することとなるが、この堀との出会いは立原にとって、こののち運命的ともいえるほど彼の人生を定めていく。まさしくこの出会いは詩人としての歩みをはじめる十七歳の立原にとっては、新たな世界へと飛翔するための、〈開かれた窓〉になった。

短歌から詩へ
 「詩歌」において三木祥彦のペンネームで口語歌人の新人として道造が認められていたからであろうか、高校時代に作られた短歌は全て自由律短歌であった。この自由律短歌創作と一高ローマ字会の活動としての口語短歌のローマ字表記とが彼に新しい抒情の方向を示唆した。その抒情が後に詩へと自然に流れ発展していくのである。このローマ字表記が、彼が後に歩む美しい口語詩を築き上げて行く道を方向付け、彼が日本語の中に美しさを見いだす礎となったと思われる。

 昭和七年八月の書簡で、三好達治の四行詩集「南窗集」について「僕は一度は大概誰でもすきになる。とはいふものの、人間があまいせいかしら、うつくしい抒情が、いちばんすきになります。〈南窗集〉でもそのアトモスフェアが、僕を魅したので、どのやうに心を打ったかといふならば、非常に心を打ったと告白します。だから、この頃は、往来など歩きながら、よく《それはそのまゝ思ひ出のやうな一時を……》などと、しょっちゅう口にぶつぶつ言ひます。」とか「とに角、一口でいへば、あれはすばらしい。いつかこの詩人が堀口大学についていた名言『機智の綱渡りの詩人』を機智と感傷をとりかへただけで、そのままこの詩人にあてはめられると思うが、この南窗集一巻はそのつなわたりの至芸を息もつかせず見つめることを、僕に強ひるのだ。(中略)白い紙を裏返しにしょうとしてしかねてゐるすきとほった手、僕は、その手の動きのうつくしさによって、こんなに魅せられてゐるのかも知れないよ。それから、も一つ見落としてならないものは、ほのかなひくい声、とほい物音で満ちてゐることだ。」と書いて、「蟻が/蝶をひいてゆく/ああ/ヨットのやうだ」をあげている。

 彼が四行詩を書き始めたのは、この影響があったであろう。
 それは自身の口語歌を四行詩に書き直すことから始まる。

 ◎何しに僕は生きてゐるのかと或夜更に一本のマッチと会話(はなし)をする
 ▽   「問答」
   何しに僕は生きてゐるのかと
   或夜更けに
   一本のマッチと
   はなしをする

 ◎胸にゐる擽ったい僕のこほろぎよ、冬が来たのに、お前は翅を震はす!
 ▽   「こほろぎ」
   胸にゐる
   擽ったい僕のこほろぎよ
   冬が来たのに まだ
   お前は翅を震はす

 昭和七年九月と思われる書簡にも「四行詩編」が見られ。
 この夏に四行詩を書き始めたからか、「詩歌」昭和七年六月号に自由律短歌を発表したのを最後にして、同誌には発表が無く、ほとんど短歌を作らなくなった模様である(「ゆめひこ」に四首散見されるばかり)。
 彼が四行詩を書き始めたというのは、この頃から彼の詩情が短歌から詩に移っていったということで、彼が詩を作り出したのはいつからであったかは定かではない。昭和五年の書に「短歌や詩は可成作りました」とあるから、その頃には作っていたことは確かである。
 「詩歌」に自由律短歌を発表していた道造は、その短歌に込めていたものを、三好達治の四行詩を読んだことから、詩へとその表現形態を変えた。ただ単に達治の詩に感動したばかりでなく、道造の短歌の中にその詩形を受け入れるものがあったと見るべきで、これまで短歌で培われてきた詩情が、新たな詩形を得てさらに新たな詩情を獲得していく過程はごく自然なものであった。

 昭和七年に、最初の手製詩集「さふらん」(四行詩集)が制作される。

詩人の胎動
 続いて、昭和八年には手製詩集「日曜日」「散歩詩集」の二詩集が生まれる(その他にもあるよう思われるが、発見されていない)。
 「日曜日」は、一高での最初の一カ年の寮生活中、日曜日ごとに家にいることを楽しみとした日々を記念するものとして作られた。十一編が収められているが、軽い即興的な詩、調子を合わせた歌のような詩、散文詩と様々で、そこからは求める詩を求め得ずに色々と彷徨う姿がうかがえる。この前後に記された未発表詩編百編も、散文詩、四行詩、無定型詩とその時々の筆の流れのままに書かれている。それはそれで道造の詩の出発が高い文学性を示しているといえるが、彼にとって試作習作の域を出ていないのも事実である。
 「散歩詩集」はこの年の暮れに制作している。散文詩四編、短詩三編を収めている。これらは内容として一応の完成した形を持って、立原の詩人としての出発をここに見ることは出来る。
     
 物語についても触れておくと、例の「あいみてののちの」の他、一高在学中に発表した物語は六編、その頃のものと思われる未発表作は十三編を数える。これらの物語は、夢のようなはかない感情で書かれており、例えば、「手紙」(校友会雑誌・八年十一月)については、「ただあれだけの何でもない出来ごとを独特の感受性の動きによって見事な短編にまとめあげている」(太田・「投稿作品に就いて」)や、「その特異な感性で詩的に捉へられた鋭い表現か目立つ」(國友・「編集後記」)と評されている。
 しかし、やはりここではこの頃の彼の詩や物語については、彼の純粋な感受性の描き出した作品と言うにとどめておく。

立原の立脚点
 この頃の立原の文学的関心事を示すものとして、一高卒業間近な頃の書簡(六年二月・國友宛)を引用する。
 「室生犀星とリルケだけ、僕は心を打ちこもう! だが、そのことは同時に、リルケを通して、セザンヌとロダンとヴァレリイとボォドレェルとノヴリスとに、犀星を通して、芭蕉と朔太郎とに、僕を送るだろう。そして今はリルケと犀星だけでよい。僕は決して議論など学びたくない。あの二人の、神と平野の間で苦しみ祈った魂のなかで、生きたい!」

また、この頃の、いやこの頃から晩年に至るまでの道造の文学観については、後に述べるつもりであるが、ここでは、その頃進歩的グループといわれた人々に対して道造がどんな態度をとっていたかを、杉浦が語るところ(「一高時代の立原」)から見ておく。
 それによれば、立原は「芸術至上主義者」であって、「芸術のための芸術や浪漫的なものをやっつける」ことを説いていた当時の進歩的学生を尊敬する杉浦に、立原は『堀辰雄さんが一高のころ、文学者が文学の問題を経済学や革命の問題にすりかえて論じるのは卑怯だ、と書いたのを読んだばかりだ』と答えて、一般が「文学の自律性を認めず、もっぱら政治の道具としてしか見なさないという傾向が強」く「進歩的ということばに追従していた」中にあって、「立原はぜったいに自分の考えをまげて他人に同調することをしなかった。」という。
 この立場はこの後、彼の文学を方向づけていくが、晩年の彼の悩みもまたここから発するかと思われる。


詩人の誕生
 これまで見たように、道造の一高時代は、読書と詩・物語を書くことが生活の大きな位置を占めるようになり、抒情の表出は短歌から詩へ移り変わったと言えよう。これを「詩人の誕生」と言えなくはないが、「詩人」として世に認められるのは、この後、一年も経ないうちである。
        (肖像写真の画像および資料提供:立原道造記念館)  
  (以下、そのUへつづく


◎ぱれっとトップへ戻る
◎立原詩集トップへ戻る
◎北軽井沢周辺の案内
◎北軽井沢周辺の散歩道
◎北軽井沢の四季(写真 )
◎北軽井沢のお店
◎北軽井沢雑記帳

       2007/12/14〜